2006年8月26日 (土)

帝国ホテル

外務省時代に家族で一度だけ帝国ホテルのスイートに宿泊しました。部屋は60m2ほどのエレガントで居心地の良い空間でした。立派な応接セットもあり、家族でくつろぐには雰囲気も最高ですし、立地も銀座や有楽町に近く、さすが日本を代表するホテルだと思う。施設面の充実であれば帝国ホテルよりも素晴らしいホテルがあると思うが、他とは明らかに違うのは伝統と格式だけに胡坐をかかず、サービスに努めるスタッフ一人一人がホテルマンとしての真の誇りを持っているからだと思う。
海外から一時帰国して一晩だけ立ち寄った帝国ホテルは、チェックインする際、何か私たち家族には違和感を感ずるものでした。身なりも周囲とは明らかに様相が違い、どこからみても好意的に受けるものではなかった。季節外れのコート、異常に多い手荷物、
「過酷な国でのご勤務、本当にお疲れ様でした」
「小さな子どもさんを連れた海外勤務は大変でしょう」
ロビーでの人間ウォッチング、いかにも旅行慣れしたスマートなご夫妻、肩下げカバンを胸でクロスした年配の団体様、いかにも金持ちだぞと言わんばかりの金ぴかギラギラの成金趣味のおじさん、
帝国ホテルは1890年11月3日落成開業。隣接する建物は明治・大正時代を代表する鹿鳴館で、その密接な関連を持ったホテルとして建設されたものです。その後、大正時代にアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトに設計を依頼。1915年(大正4年) フランク・ロイド・ライトは帝国ホテル設計のために来日し、1922年(大正11年)に帝国ホテルが竣工するまでに、遠藤新をはじめ多くの日本人建築家に大きな影響を与えています。1923年9月1日の竣工披露間際、関東大震災の被害を受けました。当時、建物には一切被害がなく、ライトの天才的耐震設計によるものであったというニュースが一人歩きしていました。ライト自身も建物はびくともしなかったと書いていますが、実際には無傷ではありませんでした。1967年(昭和42年)に解体され、現在はライト館の玄関部分だけが愛知県の「明治村」に保存されています。
ライト館にはチャップリン(1932年)やマリリン・モンロー(1954年)も宿泊したことでも有名ですが、日本初の「アーケード」としてオープンした「帝国ホテルアーケード」、ブッフェスタイルの食事も日本で初めて取り入れられたものです。
帝国ホテルのリピーターとしてまた宿泊したいと念じてきましたが、以来、帝国ホテルのスイートに宿泊することは実現できていません。

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2006年8月20日 (日)

曲田の正教会

 秋田県大館市にある教会です。東京神田にあるニコライ堂のような立派な建物ではありませんが、小さな正教会です。正式には北鹿ハリストス正教会曲田福音聖堂というのですが、一般的に曲田教会のほうが通っていました。場所は秋田県大館市のはずれで、田園に囲まれひっそりと建つ曲田の聖堂は明治時代の擬洋風建築として文化的価値が認められ、昭和41年秋田県から「現存する我が国最古の木造ビザンチン様式教会堂建築」として県文化財の指定を受けています。

 この聖堂は、約15坪という平面十字形の恐ろしいほど小さな木造平屋建てです。工期はわずか3カ月で明治25年7月31日に竣工し、大工棟梁は貫堂と言う東京神田のニコライ堂の工事関係者です。秋田杉をたくみに加工し、聖所の架構法も四方から木製アーチをのばしてドームを架けるなど、貴重な木造ビザンチン様式建造物です。明治の擬洋風建築として文化史的価値があるのは当然ですが、このような東北地方の農村にまで分布したハリストス正教会の聖堂遺構として地方的意義のあるもので、初めて訪れた当時は感動に近いものさえ覚えました。聖堂内にあるイコン19点は近代日本の黎明期における洋画法を用いた例として美術史上の価値も大きく、平成3年9月市文化財に指定されています。ここで地方における正教会の歴史などを聞かせてもらえば明らかに違う側面の地方史が垣間見えてくるはずです。神田こニコライ堂にも函館ハリストス教会にも負けず劣らない素晴らしい教会建築が秋田の寒村の地にあることを知ってほしいものです。

 洋風建築からハリストス教会建築、東方教会史、イコン等、バラバラに見えますがひとつの興味からどんどん広がっていくものです。新しいものに触れたり出会ったり、何かに感動したり、違う角度から見つめ直してみたりというきっかけが、新たな意欲や新たな創造に結びつくものだと思います。普段は煩悩ばかりで罰当たりな人間ですが、ふとロシアイコンを観察しながら思うのは、気が付けば人生も折り返し点を迎え、神妙な思いで妻や家族に感謝しながら夜を過ごしています。

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2006年8月18日 (金)

ハリストス教会建築

Photo_2  学生時代の卒論テーマに「ハリストス教会建築」を取り上げ、北海道から東京までの正教会建築を見て歩きました。きっかけは建築史のゼミで、それまで中世城郭の発掘を何年か続けていましたが思うように資料が集まらず卒論が書けませんでした。当時は全国的に洋風建築の悉皆調査が主流だったこともあり、ゼミ仲間も洋風建築で書くものが多かった気がします。


 
函館にある旧ロシア領事館を宿舎としたゼミ合宿。異国情緒の街「函館」を象徴するのは、何といっても元町という函館山の裾野に広がるあたりです。山麓から函館港を見下ろすように並ぶ16のきつい坂道。その周辺にはさまざまな教会が立ち並び、歴史を物語る西洋風建築の民家や倉庫が数多く残っています。このとき出合った洋風建築に魅了され、故郷である宮城県石巻市には現存する日本最古のハリストス正教会があることを知ったのです。この函館ハリストス正教会は日本で最も古い歴史を持つ正教会ですが、初代の復活聖堂は安政6年(1860)に建立されましたが明治4年(1907)に焼失し、大正5年(1916)に現復活聖堂が竣工しています。1983年、大正時代の建造物としては全国で二番目に国の重要文化財に指定。

  ここで、ハリストス教会だ、正教会、東方正教会だとか、様々な名称が出ますが、基本的にはキリスト教のひとつである東方正教会のことです。キリスト教世界は大きく分けて三つの会派に分かれています。東方正教会、西方教会(ローマ・カトリック)、プロテスタント教会の三つです。8世紀から11世紀にかけて、西方教会との違いを深め、11世紀に東西に分裂しました。また東方正教会と西方教会は「旧教」、プロテスタント教会は「新教」と二つに分類することもあります。文化的には西方教会はラテン文化圏であり、東方正教会はギリシャ文化圏で育まれた教会ともいえる。日本ではロシアから教えが入ったため、ロシア正教と呼ぶことも多いようです。日本のキリスト教会の中では、日本ハリストス正教会が東方正教会に属します。 

 前段が長くなりましたが、故郷の石巻市千石町にあった石巻ハリスト正教会会堂が明治13年(1880)に建てられ、宮城県沖地震で倒壊してしまいました。たまたま帰省しているときに、再建している工事現場を見学する機会に恵まれました。基礎から躯体、部材に関する全てが新築状態で、2階にある祭壇の部分的な部材のみが当時のものであり、素人が見ても新築としか言いようがないものでした。現在ではこの建物が日本最古のハリストス教会だと紹介していますが、文化財という面から言えばこの建物は日本最古のハリストス教会ではありません。あまりにも文化財という認識が低いことに憤りを感じていますし、訂正するのであれば「日本最古だったハリストス教会」として紹介してほしいものです。

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2006年8月14日 (月)

消防屯所建築

 八戸やその周辺には消防屯所と呼ばれる古い建築群が数多くみられます。特に岩手県北部から青森県にかけて、大正から昭和に建てられたデザインもユニークなものが多いのです。地元の棟梁たちが見よう見まねで手がけたデザインは今でも斬新さがあり、チョット笑えるようなものもあり、時代の大らかさを感じます。現在、建物は老朽化が著しいものばかりで取り壊されたものも多くありますが、地域を代表する顔として活躍していた時期があります。消防屯所は今では珍しくなった「火の見やぐら」の乗った建物で、屯所を見て育った地元住民にとって愛着のある建物であることは間違いありません。洋風デザインを取り入れた木造2階建てで、1階にポンプを配置し、2階前方に小さなバルコニーを設け、望楼を乗せるのが一般的です。現在のように携帯電話での通報手段が無い当時は、遠方を見渡す火の見やぐらが、火災の早期発見などに大きな役割を果たしていました。1階には、駐車スペースのほか、器具置場や和室・流し台・洗面所を配置。和室には、囲炉裏が設けられ、消防団員たちの休憩や懇談の場として役立っています。この屯所建築の中でも忘れられないものが、荒町にあった居酒屋「加寿良穂」前の屯所です。ネギ坊主のような屋根が乗った建物で、一見するとロシア建築の影響を受けた感じがします。でも、大工がたった一枚の絵葉書を参考にデザインしたという代物なのです。この屯所を眺めながらの「加寿良穂」での一杯は、いつのまにか話題は異国情緒あふれていました。

 八戸は港町でありながら、函館、横浜、神戸とは全く異質の港町文化を作り上げてきました。ハイカラではありませんが、少しだけハイカラな要素を取り入れ、自分たちの暮らしに最も適したデザインを採用する特徴があります。学生時代、小さな路地を曲がるとどこにも洋風建築が見られ、地域の風景として溶け込んでいました。

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2006年8月12日 (土)

八戸の洋風建築

 兵庫県で暮らして青森県八戸市に対するイメージを聞くと、「さびれた漁村」「背負子を背負ったおばあちゃんが横断歩道を歩いている」そんなイメージがあると言われることが多々あります。現実を本当に知らない人たちが多い、東北に対する偏見が顕在していると思うのですが、八戸は近代建築の多い街でもあり、モダン都市の側面を持っていることを知ってほしいと思います。

 例えば鳥屋部町に残るライト風の住宅。フランク・ロイド・ライトと言えば建築をやっている人間であれば誰でも知っている名前です。このライト風の住宅が旧今渕家住宅で、母屋は残念ながら取壊され、スーパーの駐車場になっていました。庭と門が残っていてここがそのライト風の住宅だったのだろうと想像できます。帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの影響を受けたライト風住宅が、どうしてこの八戸に作られたのか現在まで知ることはありません。

 これ以外にもガーディナー設計と伝える日本聖公会八戸聖ルカ教会は大正14年(1925)、関野太治郎設計の旧八戸小学校講堂(明治記念館)が明治14年(1881)で青森県最古の洋風建築です。八日町にある旧河内屋橋本合名会社(大正ロマン)は安藤安夫によって設計され、大正13年(1924)に竣工され、現在は大正ロマンというレストランとして活用されています。
Photo_3 
また、小中野の繁栄を今に伝えているのが、旧旭商会・現在の「ひまわり食堂」です。この建物は、八戸でも古い洋風建築で、大正時代に八戸商業銀行小中野支店として建てられたものです。木造2階建で、玄関ポーチには特徴ある3連アーチと塔屋状のドームが設けられています。八戸商業銀行は昭和初期に世界恐慌のあおりで休業となり、一時はカフェ「ハトバ」となっています。映画やドラマに出てくる霧笛が聞える小さなスナックという雰囲気がよく似合います。国指定登録有形文化財にもなり、街のシンボルとして大切にされています。長い年月の間に一部改築が行われたものの二本の柱で支えられた三連アーチの玄関や、その上のドーム状の屋根など建築当時の銀行建築のモデルであったギリシャ・ローマ神殿風のデザインはそのまま残されており、市内最古の洋風建築として知られています。

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2006年8月10日 (木)

日本最古の石造アーチ式ダム

 ダム工事総括管理技術者会から講演依頼があり、ダムに関係した話題はないかと考えていたら、学生時代、青森県むつ市大湊でダムの実測調査をしたことを思い出しました。夏休みを利用した合宿だったように記憶しています。夜になるとむつ市の関係者から宿舎にビールや酒がよく届けられた印象が強く残っています。 

Photo ダムといえば一般的にコン クリートの大規模ダムを想像しますが、ここのダムは堤高7.9m、堤長26.5mほどのかわいい小型ダムでした。それも丁寧に加工した切石を積んだ美しい石造アーチ式ダムです。堰堤を中心として貯水池やその周辺の護岸石積み底面石敷は明治時代の技術というだけでなく、日本の水道史における重要な明治創設期の土木遺産です。溢流口の4連櫛形アーチの見事な石組み、そして取水口の石造の美しさ、石の積み方、水の流れ、護岸石積み、大袈裟に言えばまさに芸術品ともいえるもので、日本水道史・産業史の上からも貴重な文化財だといえるものです。わが国最初のアーチ式ダムでもあり、表面は安山岩間知石の布積み。石工は、九州からよばれたと聞きましたが定かではありません。このダムを初めて訪れてから、かれこれ25年以上になります。あれから一度も訪れたことはありませんが、宿舎から眺めた大湊の夜景はまさに絶景です。

Photo_1 このダムの近くには石造平屋で北洋館と呼ばれる洋風建築もありました。海上自衛隊大湊地方総監部内にある建物で、大正5年(1916)建築の洋館です。外壁には近くの釜臥山から切り出した石材を使用し、昭和54年には日本建築学会から大正・昭和の名建築に指定されました。館内では、明治から現在までの北方の海上防衛をテーマとした資料が展示されていますので、ダム見学と同時に立ち寄るといいと思います。北洋館はもともと大湊水交社と呼ばれた海軍大湊要港部の士官用社交場として建てられたものです。
設計は旧海軍横須賀鎮守府建築科で、日本人として初めて英国王立建築家協会会員となった桜井小太郎の設計です。後に東京丸ビルや三菱銀行本店などを手がけた著名な建築家です。兵庫県に来てから初めて知ったのですが、神戸市立博物館も彼の手によるものだそうです。博物館は、昭和10年(1935)建築の旧横浜正金銀行神戸支店ビルだった建物を転用しています。西側部分を増築、内部は博物館として改修されましたが,二階吹抜けの旧銀行業務室は大ホールとして天井とも保存されています。正面に立派なドリス様式の円柱6本が建ち並ぶギリシャ神殿風で、古典主義様式の中でも昭和の名建築といわれ、神戸における様式建築の最後期の作品です。

学生当時は桜井小太郎という名前は日本建築史で聞いたことがある程度で、それほど興味があるわけではありませんでした。卒業後、出張等で出かけた場所で彼の作品を何度か目にする機会がありました。若い桜井はこの日本最古のアーチ式ダムの建設に心血を注いで設計し、その後の活躍につながったのは言うまでもありません。初めて建築の実測調査をこのダムで経験し、出来の悪さを露呈するような失敗続きの調査でしたが、あれから25年が経過し出来の悪さだけは相変わらず今も同じですが、学生より元気だった恩師は昨年秋に大学を勇退されました。恩師を囲む同窓会が開催されましたが、そんな小さなダムにまつわる思い出話を伝えることを忘れていました。

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