2007年6月23日 (土)

学芸員雑感

 博物館には学芸員と呼ばれる資格を有して勤務している職員がおります。でも、職場での肩書きは学芸員とは限りません。自治体にもよるでしょうが、一般的には事務吏員であって、主事・主査・主任といったケースが大半です。学芸員という名前を聞くと、「研究職」なのかと勘違いする人も結構多くおります。

 一般的に博物館や美術館に勤務するためには、まず自治体の採用試験を受けなければなりません。その上で、配属されますが、資格を有していても、希望通りに勤務できるわけではありません。また、「学芸員」として採用した場合、博物館や美術館といった固定した施設にしか勤務させられなくなることもあります。そして、同じ職場が長くなれば、そこに胡坐をかいてしまうケースもあります。確かに専門職としての学芸員は必要ですが、市民サービスとしての専門職であることを理解しておく必要があります。

 一般職として採用されたにもかかわらず、名刺に○○○博物館学芸員と記載している職員も結構多くおります。いつから学芸員になったのかよく分かりませんが、学芸員と入れておいたほうがアカデミックな感じに受け止められるとでも勘違いしているのではないかとさえ疑ってしまいます。学芸員の資格と学芸員の適性とは別問題。

 学芸員と呼ばれる人たちの仕事といえば、小さな部屋でモノをただ並べて満足している人たち、自分の研究テーマだけに自己満足してしまうオタク型、百科事典丸写し型の企画屋さん、他施設の企画買取型。ある研究会の席上でこんなイメージがあると紹介していました。全てがそうだとは思いませんが、当たっている点も多いのかなーと考えさせられました。大きな施設では思い切った予算を使いながら集客も可能でしょうが、小さな施設においては「思い付きタイプ」の企画展が開催されているケースが増加しているのも事実です。

 財政的に厳しい現状ですが、しっかりした研究に裏打ちされた企画展であれば、市民も理解してくれることでしょう。何かのせいにして、今の博物館は大変なんだとばかり愚痴っていても誰も助けてくれることはありません。

 

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2007年6月22日 (金)

出前授業

 小学校3・4年生を対象にした出前授業「オオサンショウウオ」について話してきました。最近はパワーポインタなる便利なツールもあり、言葉不足を補ってくれます。子どもたちの質問を基に、教材としてのパワーポインタを編集していたら、久し振りに徹夜になってしまった。

 平成16年に発生した台風23号によって、河川の下流において大量のオオサンショウウオが発見され、保護された。標高僅かなところで、本来オオサンショウウオが生息していない場所において発見されたことから、大雨によって上流から流されてきたことは明白まである。博物館周辺でも1mを超す「川のヌシ」もいたが、現在は巣穴ごと流されてしまった。

 ナゾだらけのオオサンショウウオですが、自分たちが暮らしている川の環境を考えるきっかけとしています。本を読んだだけの情報ではなく、小学校に隣接した川にいるオオサンショウウオをいつも見ている子どもたち。近くにいて当り前の生き物だけど、改めてオオサンショウウオについて学んでいくと、地元でいっぱいいるのは当り前だけど、オオサンショウウオはヨーロッパでは既に絶滅してしまい、アメリカ東部のミシシッピー川、中国の広東・四川省といった限られた場所にしかオオサンショウウオの分布がみられないことを考えていくと、世界的に見ると極めて貴重な生き物であることがだんだん理解していきます。将来、オオサンショウウオ博士でもこの中から出てほしいものだと思います。

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2007年3月17日 (土)

素敵な恩師

年度末になると何故か恩師や先輩たちから、手紙や文化財の報告書が次から次に送られてきます。まるで勉強しろよと言わんばかりの暗黙の厳しいメッセージが山のように机の上の文書箱が悲鳴をあげています。

学生時代の恩師は当然ながら口で表現できない存在ですし、親子の存在をも超越してしまうほどの影響力を人生の中で形成してくれたことは言うまでもありません。

社会に出て、好きな考古学を続ける原動力をくれた県立博物館の恩師は故郷だけは一緒ですが、多忙なときも名掛町の自宅に押し掛けては考古学の基本を教えていただきました。名前を列記したら皆さんが驚くような人ばかりですが、こんな一介のサラリーマンが好きな夢を追い続けられたのも、こんな素敵な恩師と呼べる人たちがいたことが起因しています。

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2007年2月10日 (土)

博物館が学校にやって来た

 当館は2000年から「出前授業」を実施しており、博物館資料を活用した普及教育活動を試みています。学校へのダイレクトメールで希望を聞いたり、報道機関を利用して広報していますが、予想していたよりも学校側の反応が鈍いので少々困惑しています。従来の博物館は待ち受け型のタイプが大半でしたが、当館が位置している地理的環境などを考慮すると、博物館の中でただ黙って来館者を待っていたのでは本来の博物館活動ができません。また、学校を離れた子供たちが、地域の中で子供らしく過ごせる居場所があまりにも少ないのが現状です。学校教育の中に博物館活動を位置付けていくことによって、生涯学習施設としての博物館の積極的な活用につながっていくものと考えています。まずは小さな時から、博物館が身近な存在でありたいものです。

博物館の立地している環境は交通アクセスが悪く、12月から2月まで客足が極端に減ります。その穴埋めの意味もあり、平日は職員全員が交替で出前授業に出ています。平日のこうしたサービス活動が休日に家族揃って博物館まで足を運んでくれます。大きな施設ならば、思い切った広告費を出せるかも分りませんが、当館のような小規模施設においては職員が一丸となって動かない限り、集客効果を望むことは厳しいものです。特に後発の施設においては知名度の関係や、先発組が観光会社と連携していることもあり、その中に食い入ることは至難の業です。

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2007年1月18日 (木)

博物館のオヤジがんばる

本日からタイトルを変更しました。改めて大層なタイトルを付けたものだと感じながらも、博物館11年目を迎えた心構えとしたいと思います。

同じような題名の映画「看護婦のオヤジがんばる」が1980年7月にありました。青森県八戸市を舞台にした看護士の奥さん、その奥さんを支える家族の物語で、実話をモデルにしたものです。夜勤が続く中で、看護士の仕事に対する情熱を理解してよりよい待遇が出来るように立ち上がる家族の話でしたが、雪道を帰る看護士の奥さんを迎えに行くご主人の姿。身近な風景と話題に家族の心温まるものを感じました。

看護士は病人を護るのが仕事なのに、無理をして自分自身が倒れてしまうこともあります。人の命を守るために自分の命を削り、家庭を顧みれない状況が続いています。看護士のオヤジにとって、妻が苦しむ姿は耐えられません。何度も涙したり笑ったりした、ある地方都市の素朴な生活を喜劇的に描かれた映画ですが、家族に対する優しさも、社会悪に対する怒りも根は一つのように感じられました。それと同時に、四季折々の八戸の風景や種差海岸、港街の雰囲気、沢山出てきて楽しい映画でした。

少々飲んだ勢いで、ブログのタイトルも変えてしまいましたが、この映画のように今年も頑張っていこうと八戸で暮らしていた頃を思い出しました。家族の原点は、今でも青森県八戸市です。でも、子どもたちにとっての原点は、やはりこの町だと思います。妻も今ではグループホームに勤め始め、今夜は夜勤です。次男と番犬ゴン、二人と一匹の生活です。

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2007年1月16日 (火)

博物館長と行くモンゴル旅行

夏に館長と行くモンゴル旅行が決まりました。大手旅行社の近畿日本ツーリストの企画で、既に飛行機は予約が済み、社内会議を経て詳細が決められることになりました。以前にも少人数の企画はありましたが、今回は飛行機一機250人分です。博物館としても大きなメリットがあり、積極的に広報活動をしたいと思います。田舎にある小さな博物館運営は、一般の人たちが考えている以上に厳しい課題が山積しており、自分たちだけではどうにも身動きが取れません。これまでの10年間は頑張ってこれたけど、これからの10年間どのように運営したらいいのか試行錯誤しています。

学校と博物館、博物館と博物館、いろいろな連携が可能だと思いますが、意識の違いから思うような連携活動ができていないのが、今の博物館です。博物館を利用する人たちが変わらなければという話も身内の中から聞こえてきますが、本当に自分たちは市民に理解してもらう博物館を作ってきたのか、この厳しい時こそ真剣に考える必要があります。時代や市民に迎合しろとは言いません。市民一人ひとりに近づく努力を本当に考え、実行してきただろうか。

博物館が持っている知の財産を活用すべきだと思います。外国を紹介する博物館でありながら、その国の文化を知らない職員ばかりでは真実は伝えられません。まして、その国に真の友人もおらず、書籍や館長から聞いた話ばかりでは国際交流と国際理解をしている博物館なんだとは恥ずかしくなります。カリスマ館長は確かに創業時には必要でしょうが、守勢の時代には時には足を引っ張ることもあります。それを乗り越える職員を期待していますが、未だに出てきません。

10年間、田舎に暮らしながら博物館運営してきたノウハウ、モンゴルの友人たちとの交流、この素敵な財産を一人でも多くの人たちに伝えたいと思います。これまでとは一味も二味も違うモンゴル旅行を一緒に体験しませんか。これまでにも知人が企画する旅行者のコメントを代筆し企画していましたが、今年は自分の声で、自分の体を通してこれまでのモンゴル旅行とは違う旅行を企画していますので、是非とも楽しみにしてほしいと思います。

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2006年12月29日 (金)

ネットで博物館めぐり

 静かな時期がやってきました。空気もどこか凛として、体のどこかで、小さな鈴の音がするようです。そして、さわさわと胸騒ぎがして・・・・。暮れはいつもこんなふうに訪れます。特に今年は目まぐるしい話題の多い年だっただけに、精神的な疲れまではなかなか回復しません。
 そんな人のために、世界の有名博物館ツァーなどいかがでしょうか。時間もお金もないという人のために、インターネットで博物館を巡ってみるのも楽しい時間です。最近のホームページはかなり充実してきており、わざわざ現地に出かけなくても実際に行った気分にしてくれる出来栄えです。
 
 地方にある小さな博物館や美術館にも穴場的な施設が多く、もしかすると自宅の近所にもこれまで知らなかった施設が見つかるかも知れません。実際には存在しないバーチャル博物館も多く、お気に入りが発見できるかも知れません。最近では、諸般の事情から閉館された施設も多いのですが、インターネット上にはまだ残されているものもありますので、懐かしく訪問しても楽しいでしょう。
 昨日はフランスのルーヴル美術館、今日は台北の故宮博物院、明日はロシアのエルミタージュ美術館にでも出かけましょうか。世界を股にかけての博物館巡りもインターネットならではの楽しみ方であり、自宅に居ながら手にとるように文化を満喫できます。まして時間も気にせず好きな時間に訪れ放題、入場料もかからないし、各施設の名品も間近に見ることができます。時には、博物館ができるまでの苦労話も聞くことができます。年末年始にこそ、温かい美味しいコーヒーでも飲みながらゆっくりweb博物館や美術館を堪能してみることをお薦めします。世界の各地で発生しているテロや内乱などの民族問題など、世界の博物館を垣間見ることによって少しでも理解できる手立てとなります。

 モンゴル博物館のホームページも更新が滞っていますが、新年度は博物館のホームページらしいものを準備すべく進めています。資料をクリックするとどこからでも見ることができたり、360度の大草原がパノラマ風に見ることも可能になります。一昔前では考えられないような見せる技術が進歩しています。いま少しお待ち頂ければと思います。

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2006年12月 1日 (金)

小説に博物館が登場

近所の方から、「この小説呼んでみたかい?」と一冊の本を渡されました。博物館ともご縁のある森村誠一氏のサスペンス小説です。

公園の片隅で発見されたホームレスの死体。八年前に起きた強盗殺人事件。二つの事件を繋ぐ糸は北アルプスに・・・。そしてその糸がさらなる事件を引き寄せる! 青春山岳ミステリ巨篇。・・・こんな始まりで紹介されています。

モンゴル博物館の建設経緯、地名として八戸・出石・但東・豊岡と言うように、個人的に関係している場所がたくさん出てきます。知っている関係者が読んだら、その関係を想像しながら一気に読み切ってしまいます。

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2006年11月10日 (金)

博物館10周年を祝う会

かつて一緒に仕事をしていた教育委員会の同僚を中心に、博物館10周年を祝っていただきました。

開館までの準備、想い出いっぱいのあの頃が懐かしく感じます。もうあれから10年もたったのですね。博物館を取り巻く環境は随分と変わり、否応なく時の流れを感じます。文化というのは時間がかかる。だから、続けていくということが一番大切。そうするうちにモンゴルファンがどんどん増え、豊岡に行けばモンゴルのことがすべてわかる、豊岡がモンゴル文化のセンターだ、という風になってくる。その初々しい気概とすばらしいチームワーク。「みんな若かったんだなぁ」とほほえましく、ふと青春時代を振り返るときにも似た感傷が胸をつきます。

常設展示室の完成は開館の2日前であったし、企画展示室における開館記念特別展の準備作業が終了したのも開館前日でした。平成8年11月の開館時には博物館副館長として任命され、その後に館長就任もありましたが、ここまで歩んで来られたのは、関係者のご協力の賜だと今でも心から感謝しています。

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2006年11月 3日 (金)

博物館開館10周年

平成8年11月に開館した博物館。一般の博物館と違い、公立にもかかわらず資料の寄贈者が館長となり、博物館職員には思うように動けない組織となってしまい、このままでいいのか自問自答を続ける博物館の運営です。本来の博物館であれば、行政の天下りポストとしての館長職です。人件費を削りながらも、ベテランのポストはそのまま温存している不可思議な職場です。人を育てる職場ならば、若い職員にも納得のいくような人事案を提示してもらいたいと思います。

平成7年4月に教育委員会生涯学習課係長として赴任し、博物館ができた平成8年11年から副館長、市町合併した平成17年4月から文化振興課参事兼博物館長、平成13年4月から館長となり7年目を迎えています。こんな人事でいいのかと葛藤しながらも、それに合った仕事をしなくてはならないプレッシャーを感じながら、常に何をしたら受けるのかを模索しながら働き続け、気が付いたら常に入退院を繰り返す姿。いつも身近にいる妻だけが本当の姿を知っています。こんな状態で本当に博物館の姿を伝えられるのか、疑問に感じています。今は疑問に感じながらも、博物館の本当の楽しさを子どもたちに伝えられるような計画をしています。春休み前には実現したいと思います。素敵に変身する博物館をご家族で堪能できるよう、日々工夫する毎日です。

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2006年10月 4日 (水)

合併で新たな美術館は必要?

 合併によって新たな美術館建設の話題が浮上しています。そもそもこれまでの博物館や美術館の大多数は、市民が望んで作れたものではありません。コレクターや自治体の首長といった、作り手の事情で生まれるケースが大半だと思います。日本の美術館や博物館は従来、国や地方自治体、収集家や企業がそれぞれに作り、支えてきたわけですが、逆に言えば、国民なり市民なりが、どうしても必要だと声をあげた結果生まれてきたわけではありません。昨今の不況が浮き彫りにしたのは、そうした存立基盤の弱さではないのでしょうか。
 なぜ、美術館や博物館が必要なのでしょうか。あまりにも当たり前の問いなのかも知れません。しかし、そこをもう一度見つめ直すことができなければ、どれほど施設が増えたとしても、地域に美術館や博物館が根付いたとは言えないでしょう。たまたま与えられた博物館や美術館を地域に根ざしたものにしてきただけのような気がします。今一度、地域に美術館や博物館が本当に必要か、役割を明確にしないと今後生き残れないことは自明のとおりです。無駄な公共事業だとの批判もあります。

 多くの美術館や博物館が十分に使いこなされていません。それは公共機関である館が、市民が会話を楽しみ、落ち着いて知識を交換できる「公共」の場になっていないからです。博物館は本来、話題の宝庫であるはずです。収蔵品の背後には人の物語が、展示方法には明確な意図が隠されています。会話が弾まないのは、利用者にそのことすら気づかれず、共感を呼ばない遠い場所になっているからだと思います。学校でもない、遊び場でもない楽しい空間。博物館こそ、押し付けではない豊かな学びの場となり得るものだと確信し、合併によって新たなハコモノを作るよりも既存施設のソフト面の充実を図る施策を推進してほしいものです。

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2006年10月 1日 (日)

西洋美術がおもしろい

彫刻家淀井敏夫の作品が玄関に飾ってあります。わずか20cm程の小さな母子像で、なかなか気に入っている作品です。

個人的に様々な企画展を見学に行き、その歴史的背景や絵の魅力について教えられ、一寸したことをきっかけに西洋美術が面白くなってきました。もともと西洋美術といえば、背景になっているキリスト教を知らないとよく理解できないなどと勝手に信じてきた傾向があります。特に聖書の世界を身近に感じていない社会環境だけに、なかなか馴染みにくいものがありました。美術の解説において専門用語が乱発され、宗教的な解説が書かれると逆に引いてしまう傾向にあったのも事実です。

全ての美術館で西洋美術がおもしろいという意味ではありませんが、一寸したきっかけで西洋美術がおもしろくもつまらなくもなってしまいます。美術の教科書などでお馴染みの名画は知っているけれど作品のテーマやそこに隠れている謎、物語などは意外と知らなかったりします。多くの西洋美術作品のテーマとなっているギリシャ神話、キリストのストーリーや作家・作品の特徴などわかりやすく解説してくれると、それだけで美術を普通に見るだけで十分楽しめて価値があり、更に楽しめるというものです。価値観の多様化や個性化が進む中で美術の分野においてもそういった社会の動きに対応しうる柔軟な感性が求められます。そういったニーズに応えるためには、私たち博物館・美術館職員がまず基礎を固める必要があります。美術を造形という観点から総合的にとらえ、創造的感性を広げた上で、さらに高度な分野へと興味をつなげていきます。美術の見方は、個人の主観によるところが大きいと言われます。確かに、その考え方は間違いではありません。しかし、そこに描かれた時代や歴史背景を踏まえながら見ると、全く別な見方ができるかも分かりません。

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2006年9月27日 (水)

山里での博物館運営

私が勤務している博物館は、鉄道も無く、バスの便数も極端に少ない山里に建てられています。職員は6名で構成されており、勤務の関係で通常は3名ないし4名で働いております。周囲を山で囲まれており、自然環境は抜群ですし、日常の疲れを癒すにはのんびりとした雰囲気で、博物館が置かれている環境のことを考えれば申し分のないところです。ただ、入館者数だけを気にする博物館であれば、田舎よりも都会に作ったほうが都合が良いことは衆知のとおりです。特に交通アクセスの悪い地域に立地していると、それだけで不利になってしまいます。これに自然環境が厳しく、例えば冬場に雪が多い地域などでは尚更です。雪の多い季節は、朝8時半に出勤してから約1時間以上は除雪作業に追われてしまいます。委託業者によって広い駐車場などは除雪してもらいますが、大きな除雪車が入れない長いアプローチや玄関、職員通用口というような場所は職員で除雪しなければなりません。西日本の博物館の中で小型除雪車を保有している施設も珍しいのではないかと思います。もしかして当館だけでしょうか。初夏になり、ツバメが飛ぶようになると、開けていた窓からツバメが侵入して、トレースしていた図面の上に糞を落とされたり、ムカデが出て来たりというように、もはや自然博物館の状況を呈しています。また、博物館の周囲に張られている芝生や樹木の手入れもかなり重労働です。草取りはときどきであれば心地よいものですが、約8500平方メートルもある敷地内の芝生を春から秋まで管理していくことは誠にしんどいことです。町立の小さな博物館ということもあり、毎日の掃除から敷地の草取り・トイレの掃除・館内案内・展示企画・文化財保護・発掘調査・国際交流・出版物の発行というように、およそ役場職員らしからぬ多岐多様に渡る仕事に忙殺されています。博物館は表向きは暇そうでいいように見られがちですが、実際には表から見えにくい仕事が大半だといっても過言ではありません。私自身は好きな仕事なのでどんなことにも苦にならず楽しくやっていますが、職員にとっては大変な職場だと痛感しています。愚痴ばかりいってもしょうがありませんので、具体的な成果を出しながら、より理解者が増えていくよう努力したいと思います。

 最近、博物館を運営しながら思うのですが、文化の地方への分散は今後ますます積極的に図ってほしいと考えています。とはいえ、現実は都会から地方に向かって流れてきます。文化に限らず、すべての物事が都会を発して、地方を着とする、この思想に私たちは心から反省したいと思います。良いものは、良いのです。たとえ、どんなに悪くても、それが都会発なら良いものになってしまい、どんなに良いものでも地方発なら悪くなってしまうような、今の中央集権的な発想の中に真の文化の向上はないのではないかと思うこの頃です。ただ残念なことに、どんなに良いものができても、それが地方から全国へ逆流することは、今の世の中では至難の技なのかもしれません。80年代以降は地方の時代と、政治家の方たちは口を揃えて話しておりました。でも、彼らは話を繰り返すだけで、何一つしてくれるわけではありませんでした。真の地方の時代・地方の文化は、地方に住む私たちが努力して作り上げていくべきものだと思います。そう言う意味では、流れに逆らう・・・流れを逆流させることの難しさを、強く感じています。ただ、うれしいことに少しずつですが、そうした流れが微妙に変化してきているのを肌で感じてくるようになりました。

 10年前に開館した山奥の博物館ですが、かなり無理をしながら開館までこぎつけたときと違って、最近では冷静に自分たちが置かれている環境についても考えることができるようになりました。今では、都会の博物館と比べてみてもそんなに遜色はないと自信をもっていますし、ちゃんと地方だってやればやれるのだと私たちは考えています。私たちだけでなく、この博物館は私どもの呼びかけに応じて集まってくれた国内外の関係者が作り上げた、本当に手作りの但馬生まれの博物館なのです。著名な学者や展示業者は一切参画しておりませんし、自分たちの頭で考えたものを形として作り上げたというのが現状です。これだけでは当然満足いくものではありませんでしたので、体験コーナーを設置した施設を増築する予定にしています。8月半ばには開館から数えて9年10ヶ月で30万人目の来館者を迎えたところです。

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2006年9月15日 (金)

博物館の使命とは

秋です。8月末までのうだるような暑さが、一夜にして真夏から初秋への空気に変化したことが分かります。

初めて博物館と呼ばれる施設に出掛けたのは、今から36・37年前になります。生まれた宮城県石巻市には博物館や美術館がなかったので、確か中学一年の秋の遠足だったように覚えているが、記憶の隅に残っているのは物館前にあった伊達政宗の胸像くらいである。中学二年になり、隣町の公民館で開催されていた「宮城県の考古資料展」なる展示会を中学の社会科教師が休日に引率してくれたのです。それまで日本の歴史とは全く関係ない暮らしをしていたと思っていたのに、こんな身近な場所にこんな素敵な歴史があったことを知り、いつしか考古学の世界へと引きづり込まれてしまいました。それからはまさに考古学少年そのものでした。暇さえあれば勉強もせず、自転車で遺跡通いの日々。
大学で建築史を学び、4年間発掘調査に明け暮れる毎日でした。その後、博物館に勤めたいという夢は破れ、考古学とは無縁の職場に落ち着きました。発掘調査の現場で知り合った女性と一緒になり、結婚して子供が生まれ、博物館や考古学も忘れるサラリーマン生活を送っていました。与えられた仕事を他よりも要領良くこなす毎日に腐心していた時代でした。歳を重ねるうちに階級も給料もけして不満などもなく、都会の中でそれはそれで楽しいサラリーマン生活を送っていました。

一寸したきっかけで、転職して海外赴任することになった。そして気がついてみると、友人たちよりも大きく回り道しながら、今こうして博物館を運営している。36才から文化財の仕事を担当しながら、博物館開館準備に携わり12年になった。今年は博物館開館10周年を迎え、4月15日から7月9日まで「モンゴル大恐竜展」を開催しました。既に、もう10年なのかと感慨深いものがありますが、夢中で走り続けてきた10年でした。国内最年少の公立博物館副館長・館長として自信のない日々を送っていたのが、まるで昨日の事のように思い出しています。どこに行っても、「そんな若い人だったのですか」「館長さんの息子さんですか」と呼ばれていたのが、最近ではそんなことも少なくなってきた。

今、私たち博物館職員は何をなすべきか、何ができるのか、博物館の使命とは何か、このブログを通して綴っていきたいと考えています。

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2006年9月10日 (日)

博物館の通信簿

 近年、「博物館評価」に対する関心の高さがうかがえます。評価の問題がクローズアップされると、すぐに「評価」は切り捨てのための材料になると考える人たちも現実に多いようです。評価というと成績表や考課表などが思い浮び、否定的なイメージがつきまとうが、しかし本来、評価というものは、目標が設定されたプログラムの一部であり、それ自体が目的ではありません。今の評価のあり方は利用状況を数量化するための方法で、これだけではまだまだ不十分です。
 博物館に対する見学者の評価は、「見やすさ」「コレクション数」「お勧め度」をそれぞれ評価するもので、人それぞれの好みにもよることが多いようです。そして、あえて交通費や手間をかけて出掛けて行く価値があるかどうかです。施設側としては、博物館の機能は展示・教育普及・資料収集保管・調査研究の4つに分けられて評価される傾向があります。
 博物館法が公布されて52年なりますが、この間に日本の博物館は外国のように成熟した博物館になってきたでしょうか。欧米の博物館は市民生活の中に入っているのに比べ、日本の博物館はまだまだ「敷居が高い」という声が聞こえます。アメリカでは博物館に対する評価は、既に100年近い歴史があります。

  数年前、東京都議会で都立高尾自然科学博物館の廃止問題が取り上げられました。高尾山のふもとにある自然科学博物館は、多くの都民が訪れ、高尾山自然研究路など豊かな自然をフィールドに、自然講座や自然観察会など、自然への関心を広げる取り組みを行っています。専門家の協力を得て、奥多摩・檜原などの森林調査も行っています。都が試行した行政評価結果報告書では、この博物館の評価を行っていますが、所管局の一次評価は、必要性は今後も増大していくものと思われる、事業の継続が適当であると存続の立場を示しています。ところが、総務局が下した二次評価は、地域性が強い小規模な博物館を今後も所有し続ける意義は薄いとし、廃止か休止と、極めて冷たい評価となっています。しかし、この博物館の利用者は、高尾山を訪れるハイカー、学校の遠足など、中高年から小学生に及び、地域も全都に及んでいます。無理やり廃止するのではなく、むしろ緑のボランティアや子どもたちの自然体験の拠点として拡充することこそが、地球環境保全の流れに沿ったものとなることさえできる気がします。立場によっても評価が変わってしまいます。

 各博物館は評価と運営が表裏一体ものとして早急にシステム化する必要があります。当然、博物館の活動が好き勝手にやっていいわけがありません。法人化とともに、説明責任が必ず求められます。活動の説明責任を保証するためには、評価が行われなければなりません。活動の独自性を保ちつつ、説明責任を保証するためには、今までよりキチンとしたマネジメントも要求されます。博物館は利用者の姿を知り、必要があればその実状にあった改善をし、博物館が提供できる質を高めていく必要性があるでしょう。

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2006年9月 9日 (土)

田舎の小さな博物館ものがたり

 普通であれば好きな本を読んだり、家族と一緒にのんびりと旅行に行ったりして、平凡なサラリーマンで終わるはずだったのに、いつのまにか博物館の道に入ってしまいました。ひとりの中学校教師との出会い、モンゴルとの出会いがわが人生を思わぬ方向に向けさせてしまいました。人生とはいったい何が起こるか分からないものだとしみじみ感じています。しかし、そのおかげでどのくらい素敵なミュージアムと出会い、またどのくらい素敵な人々に出会ったのか分かりません。このブログに収めた様々なエッセイや博物館を開いてしまった経緯、そこで経験した様々なエピソード、博物館を通して感じた個人の思いなどを綴っています。あらためて読み直してみると恥ずかしい文章のオンパレードで、穴に入りたい気持ちです。しかし、博物館にまったく関係のない世界から足をいれ、ミュージアムが「現代の私たちのあるべき姿、ひいては 人間社会の進むべき将来を考えていく施設」だということを知った私のささやかな経験をブログを通して知ってほしいと念じてきたところです。

 モンゴルで生活していた頃、部屋に飾る一枚の絵を求めてアートショップに通いました。モンゴル草原が緑に萌え始めた季節を描いた作品が気に入り、額のないままモンゴルの自宅玄関に飾っていました。その後も殺風景なモンゴルの冬を過ごす楽しみとして、部屋の印象を変えるために油絵や水彩を求めてウランバートル市内の画家宅を訪問しました。当時は、個人的に絵が好きというわけではありませんが、モンゴルでの生活をエンジョイするための手段だったのかも知れません。徐々に画家や博物館・美術館関係者と知り合ううちに、日本人のモンゴル文化に対する認識の低さを痛感しないわけにはいきませんでした。気がついた時には個人の家で保管できないほどの民族資料の山に家族から呆れかえられる始末でした。
 なお、私は博物館について専門的な勉強をしたわけでもなく、学芸員の資格を有しているわけでもありません。そんな私が博物館を開くことになってしまったのですが、その経緯や様々なエピソードを、そして博物館を通して考えたことなどをこのホームページに綴っていますので是非とも参照していただければと思います。ともあれ、、田舎の小さなモンゴル博物館にもそれなりの役割があり、生涯学習の拠点施設であり総合的な学習の場としての博物館の姿があります。

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2006年9月 3日 (日)

二極化する博物館・美術館

 最近、博物館や美術館を取り巻く環境が大きく変化してきました。運営の厳しさはどこも変わりませんが、ここに来て国や県レベルの大規模施設において、メガトン級の企画展が開催されている。これは展示の中身もそうであるが、予算を見ればまさにメガトン級です。ある県立美術館の副館長は、広告費を含んだ予算規模の大きさ、日の入館者数1万人以上というような数の論理で自慢します。この大型施設はいったい誰のための施設なのだろうかと疑問を感じてしまうほどの自慢のオンパレード。こうした数の論理に押され、自前の資料もない貸し館状態が増える中、博物館・美術館が持つ本来の使命を見失っていることに気が付いていません。まさに一部バブル状態であり、いずれこの大きなツケは私たち国民に大きくのしかかって来ることは自明のとおりです。

全国にある博物館や美術館の大半は小規模の施設ばかりです。乏しい予算の中で学芸員や職員たちは博物館や美術館が持っている本当の面白さや楽しさを伝えようと意欲的に取り組み、質の高い企画展を開催してきました。地道な調査や研究の成果を市民にいち早く還元し、地域に根を張った活動を実施しているところが多い。しかし現実は規模の小さな施設では到底大規模施設に対して太刀打ちできない大きな壁がある。交通アクセスにも恵まれず、季節によってはほとんど入館者も来ないときもあり、有名な資料も借りられず大型動員なんか夢のまた夢といったところさえ多くあります。

日本の社会は急激に富裕層と貧困層の二極化が進み、かつての総中流意識を持つ国民はほとんどいません。全国の博物館や美術館も日本社会と同様に、新聞社などマスコミと共催した大規模展が開催できる貸し館状態の施設と、地道で良心的な活動をしているわりには入館者が増えない施設に分けられます。地方の博物館は20年前に冬の時代を迎え、10年前にはさらに氷河期となり、現在は風前の灯状態です。これからの博物館はどんくな時代に突入するのか想像さえできません。

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2006年8月13日 (日)

拝啓 博物館・文化財担当の諸先輩へ!

皆さんいかがお過ごしですか。皆さんの勤めている博物館は既に大きな変革に翻弄されてアップアップ溺れておりませんか。20年前、30年前に夢や希望を持って就職した博物館や美術館、今でも当時の夢や希望を描きながら真剣に働いておりますか。一部の人たちは既に希望も失い、将来に不安を抱えたまま、団塊の世代と呼ばれる時期を迎えておりませんか。輝いていた瞳は淀んでしまい、いつの間にか小さな社会の中でぬくぬくと泳いでおりませんか。覇気もなく、やる気もなく、努力もせず、小言だけは人一倍、いつの間にか部下にも相手にされない環境を作ってきませんでしたか。
その道のプロパーと呼ばれながら、気が付いたら居場所さえない立場となり、人事課や職員課の担当者を困らせておりませんか。

文化財の調査もかつてと比べて少なくなり、それと一緒に少なくなった仕事量の前にうれしくもあり、さびしくもあり、周囲からは冷たい視線だけが突き刺さる今の自分たちに困惑しておりませんか。せめて学芸員の資格でも取っていれば博物館への異動も可能だったのでしょうが、それも適わない現状です。部長級が天下りする博物館長職、そんな人事異動に理不尽さを感じながらも、所詮は組織の歯車です。今日はほろ酔いではなく、かなり飲み過ぎた状態で書き連ねてしまいました。でも、これが本音なのかも分りません。

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2005年12月20日 (火)

博物館勤め雑感その弐

 地域の振興には地域文化の確立が必要だということを博物館勤めをしてから強く感じるようになりました。文化という言葉は広い意味合いを持つわけですが、衣食住など生活の利便という点では、私たちは大きな恩恵を受けてきました。特に北近畿の但馬地方に住む私たちにとって、近年の自動車道や航空網など高速交通体系の整備が進み、情報の高度化が実現したことの効果は計り知れないものがあります。但東町から神戸市内までは2時間を切るようになり、但馬空港を使って朝でれば東京までは昼に着いて会食もできるようになりました。今や但馬も、音楽や演劇、ファッション、食文化に至るまで、いわゆる中央と同質性・同時性を共有できるようになっています。時間距離の短縮がもたらしたこれらの成果は、一面では歓迎すべきことなのですが、一面では地域文化の確立という点では極めて難しい問題もあります。但馬が本来持っていた個性の喪失と引き換えに、中央の文化を受け入れ、結果として「地方の都会化」という形で文化の平準化が徐々に進んでいることです。文化の分化・分権化の重要性も忘れてはならないものだと思います。

 もともと但馬には、豊かな自然の恵みの上に構築された優れて個性的な文化がありました。古代においては出雲勢力と対峙した「天日槍(あめのひぼこ)」、枯淡超脱の禅僧で有名な「沢庵」和尚、但馬の聖人「池田草庵」、明治の官学界の総帥と称される「加藤弘之」、東京大学育ての親「浜尾新」、憂国の政治家「斉藤隆夫」、但馬の啄木「前田純孝」、情熱の教育者「東井義雄」、不屈の冒険家「植村直己」など、多彩な但馬人物群像を育てた但馬の文化に、私たちが学ぶべき点は決して少なくありません。それが地域文化の創造につながるのではないでしょうか。

 地域の文化については「中央が上、地方が下」という前時代的な図式に従って、中央文化への迎合もしくは抵抗などの意味を含めて「地方文化」として語ってきたように思います。しかし、21世紀という新しい時代の地域文化の推進には、そのようなことにとらわれない理由は何もありません。行政による文化施設の整備もさることながら、住民自身が郷土の一員としてどんな役割を演じるかに掛かってくるものと思います。住民の創造的な情熱がこれらの試みに向けられたとき、但馬の文化活動が真に但馬のものとなり、地域振興を支えることになるものと思います。

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2005年12月15日 (木)

博物館勤め雑感その一

 但東町教育委員会に勤めて5年、モンゴル博物館に勤めて3年。建物が建つときは鳴り物入りで、文化の殿堂、地域文化の拠点と叫ばれ、文化活動が急に活発化するように思われるものです。しかし建物は建ったが運営がお粗末だったり、事業をする予算がなかったり、博物館によっては職員が2~3人しかいないところもあったりで、10年もすると運営の良し悪しが地域文化に大きな影響を及ぼしてきます。肝心なのは中身です。外から売り込まれた企画を幾つか並べているだけでは、いつまでたっても充実した地域文化は育たないと思います。思いつきからのその場限りのお祭り的行事も文化とは無縁のものです。

 また、行政において文化は即効性がないだけに予算の確保もなかなか困難なセクションです。例年のように、予算の時期を迎え頭の痛い日々を過ごすことになりますが、財政や議会サイドにも博物館や美術館の仕事に関してより深く理解してもらうためには、職員が館の中にだけいてはダメだと思います。町の財政が厳しくなるにつれ、博物館職員は襟を正して利用者の声に素直に耳を傾ける必要があると思います。自己満足するだけの企画力ではいずれ飽きられてしまうのは自明のとおりです。しかし最終的には、博物館職員の文化に対する理解と熱意が大きく左右してしまうのではないかと考えています。職員もすべてにおいてオールマイティーでなくても、利用者の欲することが理解できる程度の勉強は常日頃から心がけたいものです。いずれにしても文化活動というものは本来、世の中の都合や時流に左右されるものではなく、地域に根付き、人々と融合し、時には人々を啓蒙しながら、時間をかけて展開されるべきものだと思うのです。文化施設を地域文化発信の拠点にと言っても、実現には時間がかかるし近道もあるわけではありません。その視点だけは忘れるべきではありません。

 そのような環境の中でこそ、熟成された本物の文化が育っていくように思います。経済至上主義から文化的な側面が重視される社会へと、大きな転換期にある今、文化の本質的なものや憲法にうたわれた「健康で文化的な生活」の意味を一人一人が考え直すべきではないかと思います。

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2005年11月30日 (水)

寺山修二記念館と近隣施設

 飛行機の都合で半日ほど友人の車で三沢市内近辺にあるミュージアムめぐりをしました。市内や近隣には数多くの施設が集中しており、うまく連携できれば面白そうな素材がいっぱいあります。冷たい雨が降る日曜とあってか、ほとんどの施設はガラガラでどこも閑古鳥が鳴いていました。

 はじめに寺山修二記念館です。ここは寺山修司の母から三沢市に寄贈された遺品を、保存公開するために約3年の歳月をかけ建設されたそうです。寺山修司と親しかった粟津潔氏のデザインをもとに、九條今日子氏をはじめとする元「天井棧敷」のメンバーなど数多くの関係者のアドバイスを受けて平成9年7月に開館しています。延床面積約833平方メートルの展示棟とホワイエ棟が狭い渡り廊下でつながり、上空から見るとその様は寺山演劇・映画の小道具として登場した「柱時計」を彷彿とさせるのだそうです。ホワイエ棟外壁には149枚の陶板が貼られており、寺山と交流のあった約30人のメッセージ陶板が寺山作品を題材にしたものとともに、にぎやかに彩っています。寺山芸術はもとより、三沢市の総合芸術発信基地としての一翼も担う施設です。
 個人的には寺山に対する関係者の思い入れがあまりにも強く、初めて寺山修二に触れた人間にとって、素直に馴染みがたいものがあります。強烈過ぎて次回はもう結構といった感じでした。確かに展示の手法は面白いと思いましたが、一般の人たちにとっては「怖いもの見たさ」の気がします。一通り見て回り外に出たとき、こんなにも外の空気が清々しいものに感じたことはありませんでした。何か「胸焼けする展示」といった表現が的確かどうか分かりませんが、そんな印象だけが残りました。寺山の関係者と設計デザインが優先してしまった箱物といった感じです。

 次に寺山修二記念館に隣接して市の歴史民俗資料館に寄りました。歴史民俗資料館に入るなり、アルバイトとおぼしき女性が一人で留守番している状態です。寒くて足早に狭い館内を見ましたが、野口貝塚から出土した縄文晩期の資料が申し訳なさそうに展示されていました。入口を入ったロビーの壁には発掘で出土した石器が山のようにテン箱に入れられたまま放置状態。誰が持って帰っても気付かない雰囲気で、保管方法に難点あり。展示室は狭く、いまどきこんな展示方法をしている有料施設があるのかと思うほど意識が感じられません。何といっても寒すぎて見学する環境ではありませんでした。

 道の駅「みさわ斗南藩記念観光村」。斗南藩記念観光村は、とうてい道の駅と気付かない雰囲気です。駐車場には私たちの車1台のみ。広い敷地面積があるのだから、釣堀やバーベキュースペース・植物園等工夫すればもっと沢山の人が集まるのでは?と考えてしまいます。おそらく施設の全てが完成すれば、親子連れで楽しめるスポットになる気がします。でも、どうして交通量の少ない道に、道の駅が設置されたのかよく理解できません。

 次に先人記念館。南部藩最大の馬の放牧場「木崎の牧」として知られた地で、1872年(明治5年)わが国初の民間洋式牧場を開設した元会津藩士・旧斗南藩少参事であった廣澤安任をはじめ、この地域の発展に尽くした人々を顕彰することを目的として建設されたようです。外観は、家畜のえさを備蓄するためのサイロをイメージして設計されています。1階に展示室、2階はパノラマ展望室になっており、天気のいい日は遠く八甲田連峰まで見わたすことができるそうですが、この日はあいにくの雨模様。先人記念館といっても、縄文時代早期をテーマとした「貝殻文土器展」をやっており、ここも考古担当の学芸員しか配置されていないことが分かります。館のテーマに沿った企画展はおそらく無理なのでしょう。廣澤安任の住居兼書斎を復元した建物もありましたが、寒い季節には暖房の関係でやや難あり。

 青森県立三沢航空科学館も近くにありましたが、時間の関係で寄れずに来ましたが、ここの施設が近隣では最も集客効果がある施設のように感じます。チョット辛辣な書き方をしましたが、現在の博物館が抱えている問題点が三沢市内の施設を見ただけで感じ取ることができました。

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2005年11月19日 (土)

二極化する博物館・美術館

 最近、博物館や美術館を取り巻く環境が大きく変化してきました。運営の厳しさはどこも変わらないのですが、ここに来て国や県レベルの大規模施設において、人集めとして大規模企画展が開催されています。これは展示の中身もそうですが、予算を見ればまさに異常な数字です。ある大型施設の副館長は、広告費を含んだ予算規模の大きさ、一日の入館者数1万人以上というような数の論理で自慢してきます。この大型施設はいったい誰のための施設なのだろうかと疑問を感じてしまうのですが、関係者にとっては関係ないことだと嘯いています。こうした数の論理に押され、自前の資料もない貸し館状態が増える中、関係者は博物館・美術館が持つ本来の使命を見失っていることに気が付いていません。まさに一部バブル状態であり、いずれこの大きなツケは私たちに大きくのしかかって来ます。博物館や美術館ばかりではなく、日本の社会そのものが「勝ち組」「負け組」などと既に二極化しているといわれています。

 全国にある博物館や美術館の大半は小規模施設です。乏しい予算の中で学芸員たちは博物館や美術館が持っている本当の面白さや楽しさを伝えようと意欲的に取り組み、質の高い企画展を開催してきました。地道な調査や研究の成果を市民にいち早く還元し、地域に根を張った活動を実施しているところが多いあります。しかし現実は規模の小さな施設では到底大規模施設に対して太刀打ちできない大きな壁があることも事実です。交通アクセスにも恵まれず、季節によってはほとんど入館者も来ないときもあり、有名な資料も借りられず、大型動員なんか夢のまた夢といったところさえあります。日本の社会は実態のないIT長者と呼ばれるような富裕層を生み、真面目に働いても日々の暮らしも大変な貧困層の二極化がどんどん進み、かつての総中流意識を持つ国民はほとんどいません。全国の博物館や美術館も日本社会と同様に、新聞社などマスコミと共催した大規模展が開催できる貸し館状態の施設と、地道で良心的な活動をしているわりには入館者が増えない施設に分けられます。地方の博物館は20年前に冬の時代を迎え、10年前にはさらに氷河期となり、現在は風前の灯状態だといわれています。疲弊しきった地方の博物館や美術館は体力的に後10年持つのだろうか危惧されます。博物館の本当の楽しさを伝えようとしている学芸員の夢はしぼむばかりです。

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2005年6月15日 (水)

青色吐息の博物館

 「青色吐息の博物館・・・」と常磐大学の水嶋先生がコメントを出していましたが、まさに全国的にそんな声が聞こえています。兵庫県内では芦屋市美術博物館ですが、博物館・美術館がオープンするときには盛大なセレモニーが開かれ祝福されますが、設置時の首長が変わり、合併で新しい市に生まれ変わると金食い虫のドラ息子のように言われます。揚げ句のはては勘当息子ということになってしまいます。芦屋市は大胆な行政改革実施計画を発表し、美術館については民間委託を検討し、それが実現しない場合には売却または閉館するというのです。阪神淡路大震災の影響もありますが、全国的にお金持ちの多い街「芦屋」のイメージとは程遠い財政状況です。

 日野市ふるさと博物館が存続の危機に瀕していることを知人の博物館関係者から聞きました。早速、ホームページで確認すると「ひのふる」というサイトのなかで、市民不在のまま行政サイドが押し切ろうとしている姿が見えてきました。悪名高いNHKの看板番組でもある大河ドラマに触発されたのか分かりませんが、新撰組のふるさととして有名な日野市だけに、「新撰組観光事業」の町おこしのため、現在の博物館を「新撰組伝承館」として小学校跡に移す案が出ているそうです。いかにも安直で文化のかおりがしない政策ではありませんか。ちなみに日野市ふるさと博物館は改修工事とかで、現在は閉館中です。 このまま推移すれば、行政側の強行策によって「新撰組伝承館」なるものが、博物館として再スタートする気がしてなりません。様々な口実の元、博物館を閉鎖して観光・普及施設に鞍替えしようというのは明白であり、日野市の文化度もこの程度と残念な思いです

 他の施設でも指定管理者制度を導入し活性化しようとする施設もあると聞きます。それで本当に活性化するのでしょうか。デパートが運営してきた美術館はすでに大半が姿を消してしまいました。しかし、税収減を理由に公立の施設が閉館するという話はきいたことがありません。一部でも公立施設が閉館することにでもなれば、それは全国の公立美術館・博物館に雪崩現象をひき起こすことにつながっていきます。既に他人ごとでは済まされません。かくいう私自身も、以前から利用者の増減は毎日気になって仕方がありません。近所のスーパーの店長と全く同じです。同業他社の動きをいつもチェックし、出張があれば必ず予定に博物館巡りを入れています。

 博物館側にも問題点は数多くあります。その一例として、施設を運営していくというマネージメントの欠如。ここ数日、ある施設関係者と広報に関する調整をしていたのですが、公立施設において、紋切り型のお役人がいかに多いのか痛切に感じました。規則に縛りつけられ、チョットしたことでも自分たちで判断できない職員が急激に増えています。常に博物館はこうあるべきだという信念を持って説明できる職員が残念ながら少ないのが現状です(ほとんどおりません!)。施設間においては職員の温度差、または館長の取組む姿勢によっても大きく違います。肩書きだけの館長ならば、その施設にとっては悲劇であり、将来の文化行政にもけしていい影響はありません。この閉塞的な感覚や空虚な調整に少々疲れてしまいました。

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2005年4月25日 (月)

ある博物館職員の一日

 博物館職員の仕事は、はたから見るほどそんなに楽でも簡単でもありません。来館者の疑問に答えたり、展示案内をしたり、自分の知らない分野についても勉強しておく必要があります。常にアンテナを張り巡らし、貪欲に情報をキャッチしながら情報収集することが求められています。
 大きな博物館では違うでしょうが、小さな町村レベルの博物館では、館内外の掃除から受付業務、企画展や常設展の変更、案内状の送付、博物館教室の開催、講演や取材対応、発掘調査の実施、文化財報告書の作成、国際交流、研修生の受入れ、庶務など、あらゆる業務をこなさないと博物館が機能しません。これらの作業を実質的には5名の職員で対応しているのが現状です。居眠りをする時間などあるわけがありません。ある博物館職員の一日として、その日の出来事を時系列で紹介します。

 午前8時30分、出勤。本日の勤務は3名。出勤後、すぐに館内の巡回で電球切れの確認、展示ケースの汚れ、電気仕掛けの動作確認、トイレの確認、等々の確認作業をしてから、屋外・館内清掃と受付準備。約1時間ほどで準備が整い、ようやく9時30分に開館。この間に電話応対したり、草原の動物「プレーリードッグ」飼育室の給餌と清掃。4月15日から30日まで、近くの畑でチューリップまつりが開催されていることもあり、通常より多い人出。昨日の日曜日は約1200人の入館者数で館内は一日中にぎわっていました。芝生や和室で弁当を広げる方、民族衣装を着てモンゴル人の真似をする子どもたち、家族で記念写真を撮ったりしながら、プレーリードッグの前から離れない人など、ゆったりと過ごされていました。もともと1日の平均入館者数を休日で500人、平日で100人程度を想定して設計してあるため、施設そのものも大きく作っていません。展示室はそれほど困りませんが、トイレが混雑するかと思っていたら、それほどでもありませんでした。

 平成11年度の博物館年報原稿の作成。古い資料を捜しながら年報を整理していますが、普段からこまめにチェックしておけば良かったと後悔しきり。12時に受付を交替しようとしましたが、一気にグループが入り、てんてこ舞いでした。30分遅れで交替しましたが、ゆっくり昼食もとれない状態。午後1時30分に昼食の交替ができましたが、急に大阪の大学からお世話になっている先生が来られ、呼ばれて本日の昼食は15分で終了。博物館活動、モンゴル雪害、モンゴル村構想、町おこしの話などをして帰られる。この後は近くの町から文化財審議委員さんたちが視察に来られ、一緒に館内を説明。午後3時には突然、町広報担当者とNHKが来て、7月2日放送の「おーい、ニッポン兵庫 今日はとことん」の取材依頼。ゲルの前でモンゴルの民族衣装を着てもらった町内の人を取材。午後4時、常設展のCD視聴機が破損していたため、明日の修理のため準備室へ移動。

 午後5時閉館ですので、館内に入館者の有無を確認してから、閉館作業。午後5時30分に正面ゲートを閉鎖。レジの閉鎖と会計処理、本日のミュージアムショップの売上は13500円で、ポストカード、小物類が主でした。結局、4月24日月曜日の入館者は450人でした。平日だというのに、まあまあの入館者を記録しましたが、年齢的には65才以上が1/4、婦人グループや家族連れが1/3、それに年配のご夫妻だけでの入館も多く見受けられました。日報を書いて本日の通常業務はこれで終了。午後6時からホームページの更新を1時間ほどして帰宅。もう一人の職員は、この後も遅くまで屋外展示物の制作作業。

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2005年4月15日 (金)

好きな仕事

 伝承館がオープンしてから体調を崩してしまい、1週間ほど自宅で静養していました。この間にホームページを3ヶ月振りに更新。本当は好きな仕事をしているはずなのに、ついつい贅沢な仕事をさせてもらっていることを忘れていたように思うこの頃です。誰もが好きな仕事につきたいと思っているはずなのに、でもなかなかそうはできないのが現状。でも、本当に好きな仕事をしようとすると、今持っている何かを捨てない限り簡単に実現などできやしません。考えてみれば子どものときに憧れていた博物館という職業に就くまで何度も何度も転職を重ね、いつも好奇心のアンテナをいっぱいに張り巡らせ、チャンスがあれば何度でも何度でも夢を追っていたように思うのです。

 そして、好きな仕事に就いて好きな仕事を楽しむためのヒントは、私たちの子ども時代にあるように思います。遊びに夢中になって、他は何も考えなかった時代。そうしないと好きな遊びを好きなだけ楽しむことができなかったからです。好きな仕事を楽しむことも、大人の常識で物事を考えてはいけないんだ、ということなのかも知れません。日常の中で自分の身近にある一つひとつの仕事にどう取り組んでいくかが、実は少しずつ将来の自分をも決めているような感じがします。自分はこうなりたい、こういう好きな仕事をやりたい、そう感じた瞬間からいま自分がやるべきことが決まってくるように思うのです。

 ここ1週間ほど自宅で静養して感じたことといえば、たかが人生、たかが仕事。少し休んだ程度で世の中が変わるわけでもないし、肩肘張らなくても、放っておいてもなるようになるのが人生。他の職員にも徐々に博物館の仕事を権限委譲していきたいと考えています。小さな博物館は一人で何でもこなさなくてはなりませんし、大きな博物館より実力がつくスピードがはるかに速い。失敗を繰り返しながら、それが学習効果となって速く身についてほしいと思います。初めから天才だった人間なんていないんだし、ひとつずつ学習して自分の武器をつくってほしいと思います。そして、今の仕事が本当に好きなのか自分の肌で感じてほしいものです。

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2005年3月31日 (木)

博物館はてんてこ舞い

 4月2日にオープンする伝承館、第11回企画展の準備、常設展のリニューアル等々、年度末とあいまってバタバタ状態。博物館正面は下水道工事で芝生や通路がズタズタに傷み、除雪作業でできた縁石の破損などで博物館周辺は見る影もない有様です。それでも、正面に据え付けられたチンギス・ハーンの騎馬象など、博物館の新しい顔ができたりと、確実に環境整備が整いつつあります。モンゴル博物館計画から5年で施設拡充も済み、ハード面だけは博物館としてようやく一人前になりました。

 博物館も開館して3年半も経過すると、使いづらい部屋がでてきたり、収蔵庫も狭くなったりします。これまで多目的室として使っていた部屋を「国際理解学習室」として、モンゴル民族衣装の試着・世界に関する書籍閲覧・中国少数民族のビデオ鑑賞・世界の楽器を自由に演奏というように各自で楽しめるようにしてあります。また、創作室を「資料整理室」に変更しました。企画展の準備や文化財を整理する部屋がなかったので、体験交流室の増築を機に職員の使える部屋を確保しました。見学者に対する施設整備は理解できても、職員の職場環境まではあまり考えてもらえないケースが多いようです。その点においては小さな博物館のメリットである機動性・臨機応変さで、少しでも使いやすい、活動しやすい職場環境に近づけられたと思います。

 狭い施設を有効活用するため、新企画展と同時に関連する常設展も資料の入れ替えをしました。博物館全体の展示の雰囲気が変わるようリニューアルも一緒に進め、かつ新企画展「現代に生きるモンゴル草原の伝統工芸」も同時に準備を進めました。展示内容が違うテーマを幾つか並行しながら作業すると、頭の中はややパニック状態です。
 今回建設してきた伝承館と本館とは細長い通路で連結しており、建築面積の割には想像以上に広く感じます。元々、細長い建物3棟を通路で連結していく建設計画をとっており、建物の東側と北側に増築できる可能性を当初計画から内々では検討していました。見学者にとっては細い通路で結ばれているせいか、現在地が分かりにくいというデメリットもあります。博物館側では少しでも展示空間を広く見せたいという配慮なのですが、限られた財源や建築面積ではなかなか思うようになりません。でも、そんな中で自分たちで工夫しながら仕事を進めていく楽しさもあります。

 平成11年度も今日で終わります。毎年同じように思うのですが、明日4月から思いも新たにして頑張りたいと思います。残業の連続で思考回路も停滞気味の昨今です。伝承館オープンまで後二日を残すばかりとなりましたが、職員の頑張りには本当に感謝しています。徐々に体もきつく感じる世代になり、思うように頑張れない自分の姿に直面しつつ、意識だけは若い時のままです。ここ1週間の残業はかなり体にこたえています。3年半前の博物館開館とはまた違う疲れです。博物館の建設と増築まで短い期間で一気に担当させてもらい、なかなかできない貴重な経験をしました。今度の週末は新しくなったモンゴル博物館に是非ともお越し下さい。そして、なかなか見えにくい博物館裏側の事情もこのホームページから感じとって頂けたらと思います。

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2005年3月 1日 (火)

雪国での博物館運営

 山陰地方は雪の多い地域ですが、実際に生活してみると本当に雪が多いので驚いております。青森県の八戸地方は積雪20センチ程と電話で話していたが、ここはすでに80センチを超えているところもあり、北国の青森県と関西の兵庫県なのにどうしてこんなに違うのでしょうか。とても不思議です。一般に雪国と呼ばれている地域に博物館はどれだけあるのでしょうか。そして雪の多い冬場はどのように運営して対応しているのでしょうか、是非とも聞いてみたいと思います。特にモンゴル博物館の屋根は弓状を呈しているせいか、広い面積の屋根の雪が一気に落雪してしまい大きな雪山ができてしまいます。玄関の積雪は既に2メートルを超えている状態。雪が降ると入館者もまばらですし、1月から3月前半までは苦戦を強いられる博物館運営です。近所の子どもたちでさえ遊びに来れない環境というのも、考えてみればすごいものだと思います。手を変え品を変え頑張ってみるものの、期待するほどの効果は得られないのが現状です。最低条件として、せめて雪道でも心配しないで車で走れるという環境さえあればと思うこの頃です。入館者が一人でも気持良く利用いただけるよう、これからも除雪作業に精を出したいと思います。置かれている環境が厳しければ厳しいほど、新しく春待つ気持も強くなり、また頑張るぞという気持にも