2008年1月 9日 (水)

焼いた味噌おにぎり

 正月の料理にも飽き、無性に焼いた味噌おにぎりが食べたくなっています。味噌おにぎりみるたびに一緒に遊んだ楽しい子ども時代を思い出すのです。飽食の時代と呼ばれて久しくなりますが、今何が食べたいと言われたら、迷うことなく旨い焼き味噌おにぎりが食べたいと答えるでしょう。
ネットで検索してみても、味噌おにぎりのファンが多いのには驚いています。小さい頃は味噌おにぎりと言えば、何か田舎くさいとか貧乏くさいといったイメージが先行して、旨い食べ物にも関わらず声高らかに言えるものではありませんでした。最近になって年のせいなのか、この素朴なおにぎりが何にもまして最高だと感じるようになりました。

 母親が作ってくれたからなのでしょうか。これまで真剣に考えたことがありませんでしたが、昨年の国内でおきた偽装問題をきっかけに感じることは、おにぎりこそ信頼の食べ物だということです。コンビニおにぎりも嫌いではありませんが、やはり機械よりも人の手で握られたものこそ最高なのです。そこには家族という信頼関係があるからです。直接、母親の手で握られ、素手のまま味噌を塗りつけ、厚く加熱された網で加熱・殺菌されます。ここには作り手に対する信頼関係が介在しているからこそ、美味しく食べられるのだと思います。母親の真似をして味噌おにぎりを作ることもありますが、うまく白焼きができずおにぎりの形が崩れてしまいます。最近になって、網を十分に加熱すると上手く焼けることが初めて知りました。

 焼いた味噌おにぎりの味噌は「仙台味噌」に限ります。宮城県の出身ということもあるでしょうが、米麹と大豆でつくる辛口の米味噌が合うと思います。詳しくは分りませんが、仙台味噌の由来は藩主伊達政宗が、居城である青葉城内に築いた御塩噌蔵と呼ばれる味噌醸造所に端を発すると聞いています。 風味が高く、そのまま食べる事もできるため「なめみそ」と呼ばれることもあるそうです。実家でもかつては親戚分も含めて大量の味噌を作っていました。米蔵の脇に味噌蔵があり、使用する分だけ背丈ほどもある桶から小さな入れ物に分けて使っていました。桶によって三年味噌、五年味噌というように分けられていました。

 そして、仙台で焼いた味噌おにぎりと言えば、やはり定義山です。通称、「じょうぎさん」とか「じょうげさん」と呼ばれていた定義如来で有名な西方寺の境内で売られていたものです。仙台市とは名ばかりで、仙台よりも山形県に近く、仙台駅からだけでも1時間以上も掛かります。定義山では味噌おにぎりだけではなく、三角油揚げや玉こんにゃくも有名でした。こんなことを書いていたら、無性に食べたくなってきました。それだけ仙台市民には馴染み深いものなのです。今年こそ信頼を取り戻す年になってほしいものだと、何でも無い素朴な食べ物「味噌おにぎり」から教えられた気がしました。

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2008年1月 3日 (木)

足るを知る

 モンゴル博物館には遊牧民の家ゲルが展示してある。内部には生活に必要なモノが置かれ、暮らしを忠実に再現している。見学者の多くから、「これが遊牧民の家なの」「トイレと風呂はどこ」「テレビやパソコンは」等々、矢継ぎ早に質問が飛んでくる。そして、必ずや最後に「日本人に生れて本当に良かった」という返事が返ってくる。

 足の踏み場もないほどモノに溢れた日本の家に比べたら、遊牧民の生活は何と貧しいものに映っていることだろう。家は人が人として生きるために大切な空間である。経済大国と言われる日本だが、先進諸国の中で最も貧しい住宅事情にある。それなのに、高級家具やステレオ・液晶テレビ・食器棚を埋める百円食器・・・。モノが溢れているため一家団欒の場所さえない。こんなにモノがあるにもかかわらず、いつまでも際限なく買い続ける消費者。日本人は本当に欲しいものがあるわけでもないのに、本当は買い続けるモノがほしいだけなのかも知れない。

 一般的に遊牧民は「自由気ままに草原で暮らしている」というイメージがある。しかし現実は、年間を通じて自然災害にさらされながら、四季に応じた移動を繰り返している。そのためモンゴルの人たちは欲望の少ない民族だと言われる。それは遊牧のためにいつも移動しなければならず、多くを持たないことを生活信条としているからである。

 私たちは幸福というものを、ともすれば外的な条件に求めすぎてきたようだ。そろそろ「足るを知る」ことも必要であろう。中国の老子は「足るを知れば辱められず、止まるを知ればあやうからず、以て長久なるべし」と言っている。

 人は生き続ける限り、何かを捨て続けなければならないのだから・・・。(神戸新聞掲載)

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2007年1月26日 (金)

魯山人になりたい

 博物館の体験室に電気炉があることから、素人ながらに土器やチョットした焼物を作ってきました。他から講師を呼ぶことは簡単ですが、職員一人ひとりが許す限りの時間を活用すれば、我流であっも博物館に備えてある機器を使って日々研鑽することは可能です。簡単に講師依頼することよりも、職員がいつでも誰にでも教えられる技術や技量を磨き、有名な講師を呼ぶよりもユニークな活動になることは間違いありません。

 そんな思いから7年前、夜の空いた時間を活用して陶芸を勉強してきました。プロにはなれませんが、素人でも10年続けたら本物になれる気分だけは味わえます。今のところ作品としたら、玄関に飾ってある香立て、見えない場所に置いてある秋草文の一輪挿し程度です。一回だけ、青森県八戸に残る伝統芸能「えんぶり」の烏帽子を実大で作ったのですが、酔った勢いで誰かにあげてしまい、今どこにあるのか行方不明状態です。

 また、ある博物館のミュージアムグッズとして、発掘された鐙瓦と埴輪のミニチュアを石膏型を取り、約200個ほど型取、素焼き、釉をかけて本焼きというように手間隙かけて作りましたが、施設の人たちはどのように感じてくれているのだろうかと思うときがあります。休暇を利用してあくまでボランティアで応援しているのですが、その結果があまり伝わってきません。施設同士の連携は当り前だと常に話しているのですが、結局、意識して自ら変わっていかない限り何も生まれはしません。

 モノづくりは好きなのに、それを手元に置いておきたいという気持ちがありません。大半は飲んだ勢いで何でもあげてしまい、時折失敗したと後悔することもあります。でも、世の中は不思議なものです。数年前に版画で彫ったカレンダーを来館者に差し上げていたら、それがご縁となってある大きなセミナーに呼んでもらったり、今年も秋の講演依頼のきっかけがカレンダーであったり、どこで何がご縁となるのか本当に分らないものです。

 魯山人の凄さは、書を書いたけれど書家ではなかったし、絵を描いたけれど画家ではなかったし、陶磁器を数多く製作したけれど陶芸家ではなかった。料理においても、プロの料理人ではなかった。偉大なる素人と言われる所以ですが、その才能はそれぞれの領域で思う存分発揮し、ひときわ強い光芒をはなっている。

 そんな魯山人になれなくても、魯山人の気分だけはいつまでも味わいたいと考えています。手が動く限り、次の作品を作りたいと密かに下書きを作り出しています。いつか「魯山人もどき」の酒器で一献傾けてみませんか。いつでも連絡お待ちしています。集まるメンバーはかなり中身の濃い人間ばかりです。「魯山人もどき」の器も状況次第で出てくることもあります。皆様の来宅お待ち申し上げております。

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2007年1月17日 (水)

阪神・淡路大震災

阪神・淡路大震災から今日で12年。当時、青森県上北郡百石町(現・おいらせ町)に自宅を新築したばかりで、1月10日に震度5の余震があったばかりでした。暮れの12月28日に震度6の三陸はるか沖地震が発生し、年末年始に二度の大きな地震を経験しました。幸い家族に怪我はありませんでしたが、とても年末年始を過ごす状況ではありません。

それから僅か一週間後の17日早朝、6時に目が覚めた妻は大きな地震があったようだとテレビを見ておりましたが、テレビの画面には真っ暗な中にポツリポツリと街の明かりだけが映されていました。徐々に映し出される映像に何がおきたのか理解できないまま、ボーッと見ているだけでした。

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2007年1月10日 (水)

講演会

来年度の講演依頼が年を明けると同時に舞い込んできます。今年も既に9月までの大きな講演会が数件入っております。多い会場で800人と500人が予定されていますが、私の話でも本当にいいのか困惑してしまいます。

人前で話すことを得意としていないので講演会の依頼がきても、なかなか即答できずにお受けできないことも多々あります。それでも博物館の紹介になればと思い、しぶしぶ受けることもありますが、本音はあまり好きではありません。年間数回程度であればと思いますが、辛いものがあります。

積極的な博物館の運営を考えれば当然受けて当たり前なのですが、受ける以上はある程度の準備も心構えも必要です。講演会直前まで苦悶の日々が続き、終えればその評価を気にしてしまい、どうにもなりません。自信を持ちながら講演会に望んだことがありません。こんな話でいいのかと思いながら、これまで160回以上の講演会に招待いただきました。これからも呼んでいただければ辞退することはありませんが、やはり苦悶の日々は続くことでしょう。

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2006年12月31日 (日)

ゆく年くる年

 今年も早いもので大晦日を迎えました。年賀状も年々書くのが遅くなり、今回は年を越してしまいそうです。手書きではなく、パソコンで一気に作ってしまうので簡単になりましたが、味気なさを感じてしまいます。今年こそ年賀状を止めたいと思いながらも、ずるずると毎年毎年増えていく状態です。

 ゆく年をしっかり振り返り、くる年をしっかりと迎えたい。

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2006年10月 7日 (土)

仲秋の名月

空が高くなり秋の訪れを感じる晩です。HPを更新しながら窓の外を眺めると月が青白く輝いています。少々、霞がかかっていますが今夜は仲秋の名月です。仲秋の名月の「仲秋」とは、どういうことかと言うと、旧暦では、7月、8月、9月が「秋」になっていて、8月が、その真ん中であるから、「仲秋」だと言うのだそうです。月見は陰暦8月15日夜の「名月」と9月13日夜の「後の月」を賞美する行事ですので、新暦になると9月の仲秋の名月とか、10月の満月となりました。10月の満月は豆名月ともよばれますが、枝豆や栗、栗団子を供え、栗名月ともいわれています。

 仲秋の名月が中国から日本へ渡来したのは平安時代の事で、醍醐天皇の延喜9年 ( 909)の記録、「太上法皇(宇多)文人を亭子院に召して、月影秋池に浮かぶ の誌賦せしむ」(日本紀略)が最古のようです。後の名月は、同法皇が延喜19年 に清涼殿で催したもので、江戸時代になって民間の間でも盛んとなりました。小机の上に 三方を据え、団子(平年は12個、閏年は13個)や枝豆、里芋、栗、柿などを盛り、 花瓶にススキや秋草をいけて月に供えたといいます。

 本来月見は、五穀豊穣を祭るものでした。まず団子をこしらえ、三方に飾り、季節ものである芋、栗、枝豆、柿、ぶどうなどを供えたのです。この直会(なおらい)として、酒を酌み、宴をはったりもしました。京都では、日本三大観月の名所のひとつ、大覚寺の大沢池で観月の宴を楽しむことができます。なお、関西では、ススキや秋草を供える風習はなく、月見団子も丸形ではな く、里芋の形にとがらせたもので中央部に小豆のあんを巻き付けたものです。仲秋の名月にはススキや里芋とともに月見団子を供えます。この月見団子はしん粉を里芋の形にして蒸した団子に、小豆のこし餡をつけます。芋名月とよばれるゆえんです。

 小さい頃には月見は秋の味覚を楽しむ一つでしたが、大人になってからは観月会だ、なんだと理由をつけては呑む口実。でも、月というとやっぱり月見団子か・・と考えてしまうあたり風情より食い気?団子3兄弟のブームは去ってしまいましたが、団子は今でも根強い人気です。皆さんも団子を食べながら秋の夜長を過ごしてみませんか。

 また、秋といえば宮城野の萩。萩の由来は葉を落として冬を越し、春には再び芽を出すことに由来する「生芽(はえぎ)」の転訛だそうです。小さな葉が歯の形に似ているので「歯木(はぎ)」であろう、などの説もあります。萩は古代、中世の中で最も重要な草花で意匠においても中心的な存在でありました。

 桃山以降は秋の花としては、菊の方がポピュラーとなりました。それでも秋草の図には萩はススキと共に欠くことのできないものであり江戸時代に入ると秋草文様はより絵画的となり俵屋宗達や尾形光琳は名作を今も残しています。庭に多く植えられる、ミヤギノハギは東北地方に自生する品種で紫紅色の花をたくさん咲かせるものです。
 

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2006年10月 5日 (木)

芋煮会

西日本といっても山陰地方の秋は短いので、ボーっとしているとあっと言う間に冬がやってきます。秋の夜長はゆっくり好きな音楽を聴いたり、いつもは書斎に積んでいるだけの本を読んだり過ごしたいと思っているのですが、なかなか思うように実行できません。冷夏だと騒いでいたら、季節はすっかり秋です。秋になり日中も過ごしやすくなってくると、「何かしなくては・・・」と、そんな気持ちがムクムク湧いてきませんか?せっかくの季節なので、思う存分楽しみたいものです。

 また、味覚の秋と言われるように、この季節には様々な秋の味覚が送られてきます。八戸や石巻の実家からは、三陸沖のサンマが浜からそのまま送られてきます。甲府の叔父からは甲州葡萄が送られてきました。出不精の家族なだけに、家に居ながらにして全国の秋の味覚を楽しんでおります。

 仙台に住んでいた頃は、家族や同僚たちと「芋煮会」へと出かけたものです。東北の山形県・宮城県・福島県などで10月頃に行なわれる風物詩に「芋煮会」があります。 この季節になると、宮城県と山形県では河原など、いたるところで芋煮会が行われます。宮城県と山形県は同じ東北ですが、中身が少し違います。宮城県は豚肉を使い、味噌味仕立て。山形県は牛肉を使い、醤油味仕立てに仕上げます。そのほかに入れる材料は同じで、メインの里芋に、こんにゃく、ネギ、豆腐、人参などを入れます。宮城生まれの者にとって、秋になると芋煮会を行うのが恒例です。大人数で、自分たちでつくる芋煮は、とてもおいしく感じ、みんな楽しいものです。なかには、行きの電車のなかで一杯飲んで、目的地に着く頃にはすっかり酔っ払っている輩もおります。

 また、芋煮会は河原でやるのが一般的です。河原でやらなければならない理由は特にないはずですが、芋煮会で使った道具などを洗うのに便利なのだろうと思われます。また女性が同行する場合にはトイレの確保にも留意する必要があります。芋煮会は鍋を火にかけてからできあがるまでにけっこう時間がかかります。さらに辺りの非日常的な風景と相まって、芋煮ができる前から気分がよくなってビールやら日本酒やら呑み始めるのでトイレが近くなります。我が家では仙台市青葉区新川新川の広瀬川沿いの河原に出かけます。JRの奥新川駅からチョット歩きますが、茶店や公衆トイレもある場所で、あの吊り橋のあるところです。

 「芋煮会」とは、西日本や関東の人たちに言わせれば「ただの豚汁じゃない・・・」ということらしいのです。しかし東北地方ではずっと昔から伝えられてきた五穀豊穰を願う人々の特別なお祭りなのです(たぶん)。 さらに、芋煮会は男性が女性をもてなす場でもあります。東北地方では芋煮の一つもろくにできない男は、娘を嫁にやるなどもってのほかというところもいまだにあるそうで・・・・?それにしても芋煮の楽しさを知らない西日本での秋は今ひとつ楽しさに欠けます。

 こんなことを書いていたら、西日本にも芋煮会があることを初めて知りました。四国のどこか忘れましたが、どなたか教えてください。

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2006年10月 3日 (火)

秋の夜長

「秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」。秋をあらわす言葉は四季の中でも一番多いようです。そして、秋を好む人たちが多いのも事実でしょう。今年は冷夏に泣かされ、果物泥棒が横行した年で、農家にとっては大打撃の一年です。食卓に並ぶ野菜も高騰し、心地良く冷えてきた秋風とは裏腹に、家庭の懐事情も寒々としたものです。

 田舎暮らしをしていると、人は秋を自然の移ろいの中で見つけます。青く澄み渡った高い空、爽やかな風、頭を垂れた稲穂、いわし雲、虫の音などです。また、人によっては阪神タイガース優勝の秋であったり、実りの秋、食欲の秋、味覚の秋、スポーツの秋、読書の秋、芸術の秋、天高く馬肥ゆる秋だったりします。誰の言葉か知りませんが、「秋は人を詩人にする」と言われ、我が家の庭先で小さな秋を見つけたかと言えば文学青年になったりするものです。夏に比べて日暮れが早まったこと、これから迎えるであろう厳しい冬への誘いが人生と重ねられるのでしょうか。人の気持ちや体は適度なバランスを保ちながら生きており、そのバランスが崩れると心身の病気になります。そんな調和作用をしてくれるのが、秋の意味合いなのでしょうか。だとすれば、いい音楽や読書の秋と言われる理由が理解できます。

 文学的には一年の中で秋が一番夜が長い季節として扱われます。現在であれば12月の冬至なので、本来は冬なのでしょうが・・・。暖房の発達していなかった昔は比較的早く就寝することから、すごしやすい季節の中では秋の夜が一番長いことになります。せっかくの季節をダラダラ過ごさせないようにするため、読書の秋だ、芸術の秋だと称しては何らかの文化的活動をしなさいとばかりに秋に大合唱が起きるのは何故なのでしょう。本来、文化的な活動に季節は関係なく、いまや生涯学習活動は年間を通して盛んに行われています。

 そもそも11月3日が文化の日として制定されたことも理解しにくいことです。一般的には様々な文化歴史に親しみ、健全な心身・情緒を育む日として祝日になっており、 この日全国各地では賑やかな文化の祭典が行われます。昭和23年7月20日に祝日法が公布され、11月3日は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」の趣旨によって祝日「文化の日」となりました。若い人たちはあまり興味ないかも知れませんが、実はこの日は明治天皇の誕生日にあたり、戦前は「明治節」と呼ばれていました。戦前まで天皇誕生日は「天長節」と呼ばれ、祝祭日とされていました。それが、戦後になって11月3日は「文化の日」として祝日のまま残されたのです。明治神宮では、「近代日本の礎を築いた明治天皇の遺徳を偲ぶ意味でも、11月3日の明治節の精神を永久に子々孫々へ伝えていきたいものです」とコメントしていますが、本来の「文化」とは何ら関係ありません。

 そんなことより家族でゆっくりDVD鑑賞でもしながら、秋の夜長を過ごすほうが健全な気がします。芸術の秋だからといって、敢えて劇場に出かけて素晴らしい芸術に触れることを奨励するほうが俗物的な気がします。芸術感賞に比較してビデオ鑑賞は俗物的だと逆に酷評されるかも知れませんが、好きな時間に好きな映画を家族でtres bien !(トレビアン!:すばらしい!)と言いながら気楽に観ることが、文化的とは呼ばないのでしょうか。くれぐれも「文化的」と呼ばれる言葉に惑わされないよう気をつけたいものです。こんなことを書いていたら夜も大分更けてきましたが、やはり秋の夜は長いものです。

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2006年10月 2日 (月)

秋の味覚と但馬の風物詩

秋の深まりを告げるような肌寒さを感じさせる但馬地方ですが、この季節になると但馬の風物詩ともいえる雲海が見事です。朝早く目覚めると外は一面の霧です。しばらくすると、徐々にその霧が流れ始め、但東の山並が見えてきます。山里ならではの絶景です。但東の雲海スポットとしては高龍寺や郷路岳が有名です。この霧や雲海のメカニズムは晴天に伴う放射冷却現象で、地上の熱が奪われるためだそうです。一般的には未明から早朝にかけて次第に発達するようで、今日も今秋一番の冷え込みで見事な雲海に包まれた但東でした。

 また、秋の味覚といえばマツタケです。東北生まれの私たち家族にはそれほど馴染みがある味覚ではありませんでした。東北にもマツタケはあるのでしょうが、関西や西日本のように当り前のように店頭に並ぶことはそう多くありません。まして、土瓶蒸し用の器が至るところで売っている光景をみると、やはり東日本とは明かな違いを覚えます。それだけ一般的にマツタケを食する人たちが関西や西日本には多いのでしょうか。確かにマツタケの産地で有名な丹波篠山も近くに位置していますし、近年では外国産のマツタケも安価で店頭に並ぶことも多くなりました。篠山の友人がマツタケを出荷しており、キロ6~7万円程度と話しておりました。今年は豊作ですが、気候の関係で昨年より若干遅れて出荷しているそうです。豊作といってもこれは京都府やそれに近い場所だけで、今年の雨不足や残暑の関係で岩手県では例年の1/10程度、山が乾いて、9月に暑さが戻ったのが痛いと、産地の口はかなり重たいようです。

 この辺のマツタケは形も傘を開いたものが美味しく、量的にもボリュームがあって焼いてもいいし、すき焼きに入れてもいいし、マツタケ三昧を味わうには格好のものだそうです。最近の新聞紙上で世界各国から日本にマツタケが集まると書かれていましたが、中国や韓国・北朝鮮は知っていましたが、それ以外の国からとしてカナダ・アメリカ・メキシコ・ロシア・トルコ・ブータン・モロッコ、そしてニュージランドに近いトケラウ諸島からも輸入されているのです。まさに世界中のマツタケを日本人の胃袋に入れている様子が分かります。これを日本人一人当たりで計算すると、マツタケ御飯一杯分(30グラム)にしかならず、やはり貴重品には違いありません。今年は輸入物も品薄状態で、昨年よりも高値が続いているようです。今や国産のマツタケは全体シェアの5%しかなく、貴重品中の貴重品になりつつあるようです。それもそのはずで、人口栽培が困難で、かつ天気まかせとあっては、当り前かも知れません。近年はマツタケ山も整備されつつあるようですが、それでもデリケートなマツタケだけに、今後も高嶺の花は続きそうです。

 今年は町内の方から夫婦で呼んでいただき、マツタケ三昧の一日でした。焼きマツタケ、マツタケを贅沢にいれたハモ鍋、マツタケ御飯というように、原形をとどめているマツタケを拝みながら食しました。大きさ、香り、鮮度、歯ごたえといい、三拍子も四拍子も揃った地元産のマツタケでした。また、地元でもマツタケ採りの名人と呼ばれる方から2回も頂戴し、天麩羅にしたり、マツタケ御飯にしたりとこんな年は初めての経験です。いただいた方たちに感謝するのは当然として、今年も恵みの秋を迎えられたことにも感謝する日々です。

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2006年9月 5日 (火)

ラジオ深夜便

NHKのラジオ深夜便。全国で毎晩200万人以上の人たちが聴いているという深夜番組で、朝の5時までやっています。リスナーはお年寄りの人たちが中心のようですが、夜中に働きながら聴いている人たちも結構多いのです。ラジオ深夜便は、午前0時台に朗読、健康、趣味、旅ガイドなど新コーナーもでき、午前1時台には「民話」もあり、どちらかというとお年寄りを意識した番組構成となっていますが、若い人たちも結構楽しんでいます。この6時間の間、リスナーからの手紙も数多く紹介されるので親しみやすい番組になっているのでしょう。

 家の外は真っ暗で、家の裏にあるグループホームの事務室と、点滅している信号だけが唯一の灯りです。きっと誰も起きていない時間帯ですが、もしかすると布団の中にもぐりこんで聞いている近所のお年寄りもいるかも知れません。
 日本も高度成長期に入り、次第に夜型中心の生活になり、テレビ時代、ビデオ時代、更にパソコン時代となってラジオはかなり地味な存在。かつての深夜放送はニッポン放送が昭和30年代からやっていましたが、だんだん運転業務とか受験生とか一部の人にしか聴かれなくなっています。NHKのラジオ放送は午前0時で終了していましたが、昭和天皇が危篤・崩御という前後から24時間ラジオとして流されるようになりました。そんなことから生まれた関係で、深夜便はたしかに聴くというより、流れているという感じがします。夜の時間を流れている時間そのもの、夜というものの象徴のような気がします。そして、静かな流れゆく夜の時間に、やさしい、暖かい言葉をほしいと思う人が急激に増えてきたようにも感じます。

 このラジオ深夜便の「25時のインタビュー」に出演させていただきました。25時のインタビューは関西で文化関係で活躍する注目の人物へのインタビューという触込みで、NHK大阪放送局が製作しているものです。博物館の応接室で取材されたものを、編集して約1時間の番組になっていました。当日は聞き逃してしまい忘れていたのですが、しばらくして全国から電話や手紙を頂くようになりました。いずれもお年寄りの方ばかりで驚いたのですが、日本は本当に高齢化社会なのだと実感しましたし、手紙にはインタビューの感想はもちろんのこと、お年寄りご自身の趣味や生き甲斐、日常感じていること、静かな心境、悩みの一端などが綴られておりました。青森県から兵庫県へのアイターンに関する話、オープンしたばかりの博物館運営を心配してくれたり、激励の一文を寄せていただきました。テレビと違い、ラジオは声だけの世界なのに、心に伝わり、行動させる力があります。
 インタビューの大半は博物館建設のエピソードや家族で暮らしたモンゴルでの生活、モンゴルとの文化交流です。自分の人生に引き付けて聴いていただけたら幸いです。
 以前の朝日新聞に次のようなことが掲載されていました。ラジオの深夜放送を聴いている人の多くが、50・60代のシニア層になっており、特に午前3時から5時にかけてのリスナーの約6割も占めているそうです。シニア層が深夜にラジオを聴くきっかけがラジオ深夜便で、当初からシニア向けを意識し、「ゆっくり話す」「静かな音楽をかける」などの方針を徹底。プロデューサーは「年を取ると眠れないという人が多い。将来に不安を覚える人もいる。そんなときに、音に接したいと思っていた人がたくさんいた」と話しています。

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2006年9月 1日 (金)

七つ森

「七つ森通信」を作る際、名前を借用した本家(?)の「七ツ森」です。七ツ森とは、笹倉山・松倉山・撫倉山・大倉山・蜂倉山・鎌倉山・遂倉山を総称したもので、仙台市の北部に位置している宮城県黒川郡大和町にあります。仙台平野の中に忽然と人工的な山が見え、仙台からですと国道4号線を北上すると道路左側にピラミット型の七つの山並みが見えます。最高峰の笹倉山が506mと低く、一つひとつは何の変哲もない小さな山なのですが七ツ揃った山並みになると景観は一変します。古くから巨人が一峰ずつ作ったという民話が伝えられています。360度の大パノラマが楽しめる撫倉山頂上は心ゆくまで大自然の景観を堪能でき、七ツ森の各頂上に祀られている薬師如来石像を一日でお参りする「七薬師掛け」は、健康を兼ねたハイキングは無病息災が叶うと言い伝えられています。
博物館前に鎮座している七つ森は本家のような雄大なものではなく、我が家から見るとコブが七つ連なったように見えることから、本家「七つ森」に倣い勝手に呼んでいるものです。

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2006年8月20日 (日)

サラリーマンの夏休み

去年の夏も暑かったが、今年の夏も相変わらず酷暑が続いています。特に今年は異常ともいうべき暑さで、サラリーマンの皆さんはどのような夏バテ対策をとっているのでしょう。兵庫県は夏至から秋分までエコスタイルと称してノーネクタイを奨励しているおかげで、多少は楽な気もします。この暑さでネクタイをしながらの営業活動はかなりきついものがあります。我が家の駄犬ゴンも、庭の隅に体が入るだけの穴を掘って、熱くなった体を冷やしています。
 サラリーマンの夏休みといえば、お盆が中心になります。8月になると日本人の中に流れている何かがうごめくかのように、行動パターンが一定になってしまいます。乗車率200%以上の新幹線に5時間以上も乗ったり、100キロ以上も渋滞している高速道路にわざわざ乗り込んでイライラしながら夫婦喧嘩してみたり、目指すは恋しい実家です。このお盆休みがサラリーマンの夏休みに相当しますが、先祖代々の霊に心を通わせながら、またまた凄まじい混雑の中へと消えていきます。家路に戻る頃にはヘトヘトの姿がそこにはあり、疲れる夏休みがアッという間に終わってしまいます。そして、毎年同じような会談話や恐怖体験などのテレビ番組が一斉に始まり、「サザエさん」では夏休みの宿題に追われる磯野家のカツオ君が出てきます。この頃になると、子どもたちの夏休みもいよいよ終盤を迎えます。
 学生時代の夏休みといえば約2ヶ月近くも休め、アルバイトと何をしたらいいのか分からない長い長い時間です。学生から社会人になり、夏休みという名前がお盆休みに変わり、その長さも一週間足らずに短くなってしまいました。大手企業なら、それでも2週間から10日間前後なのでしょうが、中小・零細企業はともなると、土日を含めて5日から一週間程度でしょう。学生時代から見たら、こんな程度の休みかと思うのでしょうが、しがないサラリーマンにとってこれが意外にも簡単に適応してしまうから不思議なものです。また、休みがあってもやることのないサラリーマンも多く、家でゴロゴロしているか、混雑の中を帰省するのが精一杯です。サラリーマン生活22年目の夏ですが、これまでまとまった休みというと盆暮れとゴールデンウィーク位なものでしょうか。博物館の仕事をするようになってからは、逆に人が休みのときに仕事をするという生活です。日本人も欧米並みのロングバケーションをとれる暮らしがいつ来るのでしょうか。その前に日本人の休みに関する意識改革が必要なのかも知れません。

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2006年3月31日 (金)

月末と年度末

桜の便りを聞くようになりましたが、29日はみぞれ混じりの冷たい雨、30日は本格的な吹雪、博物館前の芝生はすっかり雪景色に戻ってしまいました。開きかけた桜の蕾もどうしていいのか迷っているに違いありません。
28日は退職異動に伴う課内送別会。1次会はやんわりした雰囲気で退職者を見送り、残った者で2次会へと梯子酒。市町合併して丸一年になり、お互いある程度は理解できていたものだろうと勝手に考えていましたが、議論ならぬ激しい口論となってしまいました。頭で理解していたつもりで、ちょっとした言動に敏感になっています。確かに違う個性が一緒になったのですから、もう少し時間が掛かるのは当たり前かも分りません。一同反省しながら、お互いの現状が良く理解できた気がします。ストレスにつながる不平不満はもっと議論を重ねながら解決できるよう努力しなければなりません。お互いどこかでまだまだしっくりいかないところがあることを痛感させられた2次会でした。
30日夜はボランティア組織の博物館協力会総会。博物館も今年11月で10周年を迎えます。気が付いたら早10年、この間、地域の多くの人たちに支えられてきました。そんなことを考えながらスポットライトに照らされた夜空を見上げると、ほんのり白い花のようなものが降ってきました。この世のものとは思われぬ美しい光景ですが、明日から春4月なのです。

月末と年度末で何かと慌ただしい一日。昨日に引き続き、来月15日から開催する「モンゴル大恐竜展」の最終打合せ。3月議会が28日に終了したばかりなので、開催準備や広報活動も短期決戦型で気持ちばかりが焦っています。あれもこれもと思いながら、遅々として進まない現状に頭だけが痛い毎日です。

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2005年9月10日 (土)

心臓手術で入院

 今年も例年のように入院してしまいました。今までとは違うのは、今回は心臓の手術ということで、緊張しながら入院・手術となりました。普段は平気な顔色をしていながら、本質はかなりドキドキものでした。心臓は、人が生きているかぎり、一刻の休みもなく働いて生命を維持している非常に重要な器官です。正常の心臓の大きさは自分の握りこぶしぐらいで、左右の心房・心室がそれぞれ隣りあわせにくっついた4個の部屋から成っています。そして、心臓は1日に約10万回の拍動をくりかえして全身の血管に血液を送り、細胞が生きていくのに必要な酸素や栄養分を身体のすみずみまで供給しています。
 
 数年前から心臓発作が毎年数回起こり、今年になってから時間や場所に関係なく頻繁に起こるようになりました。その度に救急車を呼んだり、妻に消防署や病院まで搬送してもらっていました。
 心臓の病気には数多くの種類がありますが、大きく分けて、生まれつき心臓に異常がある先天性心疾患と、生まれた後に病気が生じた後天性心疾患の2種類があります。
私は先天的なもので、これまで大変な思いをしたことがなく、あまり意識せずに生活してきました。40才後半頃から徐々に心臓発作が起こるようになり、最近は月に数回起こることもあり、体力的にきついものがありました。手術する直前は、頻繁に発生し、いよいよ覚悟しなければと思うことも何回か経験しました。精神的にもいつ起こるか分からない不安がつきまとい、出張さえ出かけられなくなりました。

 最近の心臓手術は以前とは比べものにならないくらい安全になったとはいえ、心臓手術を受けることは今でも安易に決められることではありません。医学的な立場から手術の危険性など説明されますが、手術を受けるかどうかの最終決定は、あくまでも本人と家族によってなされるものです。手術室に入るなり、何か雰囲気が違うことはすぐに分りました。主治医の他に、神戸大学の教授やそのスタッフ、機械を操作する会社の技術マン、ビデオを撮影する人、今までに経験のないような雰囲気に不安を感じましたが、手術そりものは太腿と肩に穴を開けてカテーテルを差し込んでの手術でしたので、傷口さえふさがれば、ほとんど痛みもなく短期間で済むことができました。医学的にみた手術の必要性、危険性を充分に理解していますが、今後の家族を含めての生活設計など病気を通して家族を感ずるというのも可笑しな話です。気がついたら子どもたちにとっての父親はいつも病院のベッドに寝ている姿ばかりです。

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2005年4月15日 (金)

新「豊岡市」発足

 四季の中でもとりわけ春が好きです。ほおをなでる夜風の冷たい空気の中にも、ふとポカポカするものを感じると、ジョギングする足どりまで軽くなります。「旅立ちの春」 というように、新しいスタートを切るには最高の時ではないでしょうか。人生においても、仕事においても、自分がその気になればいつでも新しいスタートが切れる春からなんだと勝手に思います。やっぱり、春が一番です。

 但馬各地で市町合併の論議が高まり、平成の大合併の中で新豊岡市が誕生しました。市町村合併を推進してきた合併特例法が3月31日期限切れとなり、同日までに都道府県に申請し06年3月末までに合併する市町村を総務省が集計した結果、1822に再編されることが確定しました。兵庫県内では一日、朝来、淡路、豊岡、宍粟市と香美町の4市1町が発足。06年3月末までに29市12町となります。
    
 兵庫県内では99年4月に篠山市が発足し、22市66町となっていましたが、昨年4月1日に養父市、同11月に丹波市、今年1月に南あわじ市が発足。05年度には、6市45町が10市5町に再編され、市町数は二年間で半減することになります。 美方郡浜坂町と温泉町による「新温泉町」や洲本市と津名郡五色町による新「洲本市」は、議会の反発などから一時は期限内の発足が危ぶまれましたが、05年度の合併にこぎつけています。 一方、赤穂市と赤穂郡上郡町、相生市と上郡町の各合併協議会は協議が進まず、期限内の合併を断念。神崎郡福崎町、同市川町はそれぞれ他町で行われた住民投票の結果、単独での町運営を続けることになりました。

 新市町の相次ぐ誕生で県内地図は一変しました。豊岡市など1市5町で発足する新「豊岡市」の面積は神戸市を抜き、県内最大です。 05年3月末を期限とする市町村合併特例法により、合併市町村だけが発行できる有利な地方債(合併特例債)や議員の任期・定数の特例など、手厚い支援措置で強力に進められた気がします。99年4月1日に合併し初めて特例債の適用を受けた兵庫県篠山市が第1号です。特例法期限までに都道府県知事に申請し、06年3月末までに合併する市町村は同じ特例が受けられるのです。3200以上あった市町村数は来年3月末には1822にまで再編されます。

 豊岡市の人事異動のマスコミ発表も3月8日に部課長級124人、その後に課長補佐級以下の発表が続きました。新市の正職員数は1069人で、これに嘱託や臨職の人たちが配置されます。人口9万3千人では平均的な職員数のようです。組織機構は13部局34課78係で、本庁に651人、総合支所に291人。各支所には総務課長や市民生活課長らが置かれ、住民票や戸籍の交付、水道料金の支払いや福祉相談などの窓口業務はそのまま引き継がれました。博物館は豊岡市教育委員会文化振興課の所属となり、午前11時から辞令を受けに本庁へ・・・。お互いの顔と名前が一致せず、いつもと勝手が違う変な違和感を覚えるものでした。      

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2005年1月10日 (月)

ある考古学少年の夢

 宮城県石巻市の郷里を離れて、もう23年以上になります。思えば、中学生の頃から土器や石器など考古学のことばかり考えていたように思います。でも、最近は年のせいもあるのか夢の中に郷里の風景がときどき現れてくるようになりました。北上川河口の土手を土器の破片や石器をリュックサックいっぱい詰めて、エッチラエッチラと自転車をこいでいる自分の姿が見えてくるのです。中学生のときは、毎朝、近所にあった南境貝塚に通っては石鏃や土器、骨角器などを拾っていました。日曜になると片道2時間かけて松島海岸の貝塚へ向かい、来る日も来る日も遺跡通いを続けました。大雨や台風の去った後には、いろいろな資料が畑の中から顔を出しているのです。農家のおばさんとも知り合いになり、畑仕事の合間に見つけた土器などを保管してくれていました。また地元の遺跡で飽き足らず、自転車遠征の帰りに必ず立ち寄る雑貨屋がありました。歴史好きなおじいちゃんが一人で店番をしており、いつも楽しい話を聞かせてくれながらジュースをご馳走になったものです。

 生まれて初めて拾った石鏃が今でも机の引出に入っています。当時集めた土器や石器を眺めていると、古いアルバムの写真を見ているような気がしてきます。もし、時間を飛び越えてあの頃の自分に出会えたら、私は何て声をかけるだろうかと思うのです。何食わぬ顔で「そんなに考古学が好きなら大人になったら博物館に勤めたらいいよ」とでも言ってみるのでしょうか。中学生の私はきっとこう答えると思います。「おじさん、博物館なんてそう簡単に勤められやしないよ」。あれから28年経過した現在、兵庫県但東町でモンゴル博物館を建設する仕事をするなんて当時から考えたならば夢のような気がしています。子ども時代には誰しも大きな夢を抱いていたのに、大人になるに連れてどんどん夢を削っていきます。今の子どもたちは、その削っていく夢さえ持ち合わせていないように感じられます。私もそんな一人でしたが、モンゴル草原の風に吹かれているうちに、少年時代の夢を取り戻したのかも知れないと思う時があります。しかし、そのうちフッと夢から覚めたら、まだ北上川の長い長い土手道を遺跡を求めて、一人でエッチラエッチラと自転車をこいでいるのかも知れません。

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